情熱を真理の論拠にするな!

この場合は、情熱=パッション(passion)ということで、殉教としての情熱という感じでしょうか。 世の中には「押しが強い人」がいます。その内容が理不尽であっても押しの強さでやってきたというタイプの人です。 たまに政治家でもそのタイプの人がいますね。というより、そういう人たちはそうした気質を利用されつつ、ほとんど傀儡ですから、それはさておきましょう。 新興宗教にハマった人というのは概して押しが強いものです。 「迷っている人々を救うことで自分の徳が上がる」みたいなことを本気で思っていますから困りものです。 そうした人

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模倣できない

音楽を文学に変えたり絵画に変えたり、ということが稀に芸術の分野では起こります。 音楽をベースに音楽を作るとなると、よほどのサンプル数と洗練がない限り、似たり寄ったりな感じになってしまいますが、異なる次元で表現してみると、普通はあまりわかりません。 で、モロに音楽を文章で表現するのは難しいというような人がいますが、おそらく音楽と文学と両方に精通している人が少ないだけで、フタを開けてみればそんなこともないような気がします。 にわか趣味では大雑把にしか捉えられない 五感と意識のうち、だいたいどれかに特化するのが普通で、さ

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同情の中の幸福

同情は、快楽を含み、また少量で優越を味わわせる感覚として、自殺の解毒剤となる。それはわれわれから洩れ出て、心を満たし、恐怖と無感覚を追い払い、言葉や、嘆息や、行為などをつのらせる。 曙光 136 中腹 もし同情の中に優越感を感じたとしても、相手との比較の中での感情にしかすぎず、そうした相対的な尺度がまた、自分を苦しめる原因になります。また、もし同情の中で相手の憂いなどと同調することになれば、無駄に憂いを感じてしまうことになります。 他人が憐れみを乞うてきたとき、取るべき態度は簡単で、爆笑するに限ります。 憐れみ乞い

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最初のキリスト教徒

聖書の中には、最も野心的で最も厚顔な魂が備わり、また、抜け目がないと同様に迷信的でもある頭の持主である人の歴史、使徒パウロの歴史もやはり書かれているということ、― 若干の学者は別としても、誰がこれを知っているだろうか? ― パウロの書面を「精霊」の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で読んでいたなら、真に読んでいたなら、― 千五百年の間そのような読者は誰ひとりいなかった―、キリスト教もまたとっくの昔に終わっていたことだろう。 曙光 68 一部抜粋 あらゆ

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哲学者と老齢

夕暮れをして昼間を判決させるのは懸命でない。なぜならそのとき疲労が力や成功や、善い意志などの判事になることが、あまりにもしばしばだからである。そこで全く同様に、老齢とそれの人生の判断とを顧慮する最高の慎重な態度が必要であるだろう。 曙光 542 序文 哲学者と老齢ということで、老いていくに従って訪れる頭の回転の低下を少しばかり実感しています。 我が事を思い返してみても既に頭の回転が低下しています。全盛期は23歳から25歳くらいだったでしょうか。 ただ、回転速度自体は下がっても、「効率の良い回し方」を習得しているので

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信者の値打ち

自分が信仰されることに重点をおき、この信仰に対して、だれにでも― たとえ十字架上の犯罪人であっても― 天国を保証する者は、恐ろしい絶望に苦しみ、あらゆる種類の苦業を知った者に違いない。そうでなければ、彼はその信者をそんなに高く買うことはしないであろう。 曙光 67 曙光の一書は、宗教絡みが多いですね。 信者の値打ちということで、催眠商法のようなものについてでも書いていきましょう。催眠商法の現場に潜入し、その実態を垣間見たことがあるので、その時の様子についてです。 催眠商法は、SF商法なんてな呼ばれ方をすることもあり

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どのようにして化石になるか

宝石のように、ゆっくり、ゆっくり硬くなる― そして最後に静かに、永遠の喜びに横たわったままである。 曙光 541 化石や宝石ということで、いままでに見た宝石の中で印象に残っているのは、20代はじめくらいに宝石屋に勤めている友人に優良顧客用展示会の招待状をもらい、会場で見せてもらったバカでかいアレキサンドライトです。光の質によって色が変化する石ですね。 天然モノだったので、価格はフェラーリくらいでした。 益富地学会館 まあそこまでいかなくても、京都で面白い石を見に行くのであれば、御所の近くに益富地学会館というところが

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幻想能力

中世全体を通して、最高の人間性本来の、また決定的な特徴とみなされたものは、人間は幻想― すなわち、ひどい精神的な障碍!― の能力があるということであった。 曙光 66 序文 幻想能力ということで、20歳位のときですが、小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。 この現象を取り扱う際、哲学的思索の中で考えたことと言えば、現実を過ごしても夢の中で過ごしても、いずれにしても「情報を感じているだけだ」とふんわり思っていたため、どうせなら一生寝て過ごしたいと思っていた時

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習得

習得ということで、学力や習い事についてでも書いていきましょう。先日「われわれ初心者!」の中でも学力について少し触れていましたね。 僕には各分野特に師匠的な人はいませんが、学力をつけたり物事を習得していく場合には、「良い先生」に出会えるかどうかが結構なキーポイントだと思っています。 小さい時にピアノを習っていましたが、特に上手く弾けるわけではありません。今思うと、先生を変えれば良かったのかなぁなんて思っています。 ピアノの先生と幼き日の弱さ まあでもそのピアノの先生のおかげで、先生によって上手にも下手くそにでもなると

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バラモン教とキリスト教

力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話し、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。 曙光 65 この部分は、全体像が掴めればわかるような話ですが、予備知識無しでは紐解くことが難しいですね。書いている内容共々、こういうところがすごくニーチェっぽく感じます。ちなみにバラモン教と言うものはなく、便宜上の定義です。 まあよくスピリチュアリズムなんかで使われるよう

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諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?

諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することを恐れてはいないか?諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか?― 曙光 539 文末 同じような内容のことを先程書いたので、「諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか?」についてはどうしましょう。 … お金が欲しい人は、お金がもたらす安心感や新しい経験が欲しいと思っているだけで、お金そのものが欲しいわけではありません。 同じように、彼女が欲しいと思っている人は、もしかするとただ

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絶望する人々

何かに絶望して、絶望したままだと、また絶望を味わうような現実が展開されていきます。 絶望とか希望とか願望なんてなものは、アイツの演算結果であって、本来は存在しないものです。 絶望は期待への諦め、自分が望んだとおりには進まないという状態を体感した時にやってきます。 ということで普通、絶望の手前には何某かの希望や期待、願望があったはずです。そして、予測があり、予測通りにはいかないであろうことが確定したと頭で考える時に起こります。 重要度の高さと絶望感 しかしながら世間一般で思われているような絶望は、絶望の極みではありま

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天才の道徳的な狂気

世の中でなされる悪の四分の三は、恐怖感から起こる。そして恐怖感は、何よりもまず生理学的な現象である! 曙光 538 末 天才の道徳的な狂気ということで、世の中の様々な活動を見てみると、とりわけ歴史なんかを読み込んでいくと、「この人たちは、結局何がしたかったんだろう?」と思うような出来事がたくさんあります。 後世に天才と評価されるからには、何か大した事を成し遂げたというような感じにはなりますが、その内容をよくよく見てみると狂気じみていることがよくあります。 なんだか志が高いということで、美徳のように捉えられているよう

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隣人憎悪

他人が自分自身を感じるとおりに、われわれが他人を感じるとすれば― ショーペンハウアーが同情と呼ぶもの、そしてもっと正確には、苦しみをひとつにすること、共に苦しむことといえるものだが―、他人が自分自身を、パスカルのように、憎むべきものと感じるときには、われわれは他人を憎まなければならないであろう。 曙光 63 前半 隣人憎悪ということで、だいたいトラブルのもとになる隣人についてでも書いていきます。 以前、共◯党の町内会長に、家の横をゴミ置き場にされかけたことがあります。 「お互い様!」と言いながら、自分の家の前にはゴ

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老練

実行に当って、摑み損ねもなく、躊躇もなくなるときが老練に達するときである。 曙光 537 老練ということで、何事もプロの領域に達すると、迷いもなくものすごい判断の速さと実行をもって素早くこなしてしまうようになります。 以前何処かで書いたと思いますが、仕事をしているようでも結構な空回り時間があり、あれこれ判断を決め兼ねているとドンドン進みは遅くなっていきます。 ⇒(仕事を倍速でしてみよう「われわれのどこが最も精巧であるか」、「粗雑な知性は何に役立つか」) おそらく一般的な職場でも、できる人とできない人とのスピードの差

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短気な人間はどこでわかるか

戦い合い、あるいは愛し合い、あるいは敬慕し合う二人の人間のうち、短気な方の人間はいつもわずらわしい方の役割を引き受ける。同じことが二つの民族にもあてはまる。 曙光 398 短気というものは非難されがちです。しかし引用は、まあ「気が短い」というだけでそれが良いとも悪いとも言っていないところが面白いですね。 いつでも心地よい、快い状態でいたりとか、アイツによる騒ぎ、執着をやめるということは確かにそうあるのが良いのですが、アイツの性質上、快い状態でいなければいけないとか、執着を「やめなければならない」という、裏側の執着を

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拇指じめ

拇指(おやゆび)じめということのようです。 うーん。 と考えましたが、ひとまずIQOS(アイコス)という電子タバコを吸っている人に対する変な印象についての答えが先日わかりましたので書いておきます。 「拇指しゃぶりに見える」 という違和感です。 スーツを着た大の大人が、拇指をしゃぶっているように見えてくるのです。 さあアイコスを吸っている人を発見したら次のようにイメージしてみましょう。 「ぼく、三歳」 … さて、拇指じめです。 拇指を拘束するだけで、結構な拘束力になります。 テロリストなどは、面倒だと思えば結束バンド

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陶酔と養育

民衆というものはひどく欺かれる。彼らはいつも欺く者を、つまりその感覚を興奮させる酒を求めるからである。彼らは、それを手に入れさえすれば、粗悪なパンで十分満足する。彼らには、食物よりも陶酔の方が価値がある。 曙光 188 序 まあ有名な3S政策などなど、人を陶酔させることで、関心を逸らすということは大昔から社会の中で行われています。 なんだかんだで、大半のケースにおいて感情や感覚の興奮には勝てません。 ギャンブルもそのひとつですし、酒もそのひとつです。しかしながら最たるものは、性的な興味でしょう。 ストレートに性につ

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真理は力を必要とする

たとえ口の上手な啓蒙主義者がいかにその反対を言うことに慣れていようとも、― 真理はそれ自体では断じて力ではない!― 真理はむしろ力を自分の味方に引き付けるか、あるいは力の味方になるか、でなければならない。 曙光 535 前半 社会を見渡してみると「力を手に入れなければならない」というような印象が多いですが、力は手に入れるものではありません。 同時に力だけでなく一切の現象は「手に入れる」という属性のものではないのです。 体育会系や義務教育の延長では、「努力した末に手に入れる」という構造が好きですが、こうした構造は、ア

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同情されること

未開人の間では、同情されることに道徳的な恐怖心が抱かれている。同情されると彼らはすっかり徳を失ってしまう。同情を与えることは、軽蔑することと同じくらいのことを意味する。 曙光 135 序 経済的に貧困国とされている国の人達でも、金銭援助をされることに対しては少し抵抗感を持っているというケースがあります。 もちろん実質的にはありがたいはずですが、同時に自分たちの非力さを肯定することになるからです。 ― 「同情されること」は、何かしらの弱さや非力さ、何かしらの悲惨さや不幸を認め、肯定することになるという構造を持っていま

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僅かな服用量

自然界の中では、すごく危険な植物をはじめ、ちょっとの量でえらい目にあうような物質が意外とたくさんあります。 触っただけでもダメというものもありつつ、でもたいていのものは大丈夫なので普段はあまり気にしていませんが、ある植物の葉っぱでおしりを拭いて、その激痛に耐えかねて自殺したと言うケースもあるほど危ない植物もいるくらいですから、むやみに自然界のものに手出しするのは危なかったりします。 虫刺されでもすごく強烈な毒を持っている虫もいますから侮れません。ブトでもあのサイズであの腫れ具合ですからね。 必要量や摂取量 まあそん

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宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序 宗教の起源は、埋葬やシンボルの登場、自然信仰、岩石信仰(巨岩信仰)などなどといったところですが、そうした原始的なものから、文化社会的な都合で妄想されてきたものがほとんどです。 理性では理解できないモノへの畏怖や未知のものへの恐怖を筆頭に、何かしらの感情、元を辿れば生存本能的な恐怖心が発端となり、妄想でそれを埋めるという事がなされてきたという感じでしょう。 本能的な恐怖心は残りつつ知能が発達したために

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心にググっと群馬県 2017 番外編

心にググっと群馬県 2017 番外編

ひとまず今回の心にググっと群馬県2017を投稿してみましたが、まずは写真をという感じだったので、追々追記していくかもしれません。 今回も、心にググっと群馬県 2017 番外編として、合間合間にあった出来事をちょろちょろ書いていきます。 行きはそうでもなかったのですが、栃木・群馬から帰り道、道路上でたくさんの動物に出会いました。出現した動物を順序立てると、猿、狐、鼬(いたち)、鹿という感じです。 鹿は京都でもよく見ますが、猿は洛西くらいで、京都市中心地ではなかなかお目にかかれません。 鼬に限っては家の裏に住んでいます

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中禅寺湖 夕暮れ

やすらぎの栃木路 2017 中禅寺湖

群馬県から栃木県に突入し、まずお出迎えしてくれるのが中禅寺湖です。 以前もいろは坂を走りに来たときに見てビビッときました。 やすらぎの栃木路 2015 いろは坂 今回は、夕暮れ時の中禅寺湖です。風もキレイですごく心地よい時間を過ごすことができました。 夕暮れ時の中禅寺湖 日が暮れる少し前の中禅寺湖。 (写り込んでいる人はもちろん僕ではありません) だんだん日が暮れてきて、趣が変化していきます。 すごくきれいな色ときれいな風。 さらに色が変わり、月が出てきてぐっとくるコントラストになりました。 やっぱり日光は中禅寺湖

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吹割の滝

心にググっと群馬県 2017 吹割の滝

赤城山の大沼を経由して向かうは日光方面ですが、一昨年やたらと車が混んでいたところがあったので、今年は立ち寄ってみることにしました。ということで吹割の滝です。 本当は尾瀬国立公園に行こうと思ったのですが、なんだか車を駐めてそこからバスで移動してさらに徒歩で1時間くらいという謎の苦行を強いられるようですので、パスしました。 尾瀬に行くなら尾瀬だけに集中する必要があるようです。 時間の都合上今回は厳しそうだったので、ひとまず尾瀬ではなく吹割の滝に立ち寄って日光方面に行くことにしました。 吹割の滝 東洋のナイアガラこと吹割

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by bossu

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