何かしら調子が悪かったり、ツキに見放されているように感じる時、まずやることはこころを落ち着かせることです。
そして流れを静観して、時を待つというのが理想的であり、無理な時に無理をすると、当然に理に適っていないのでより一層物事がぐちゃぐちゃになっていきます。
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特にここ最近は、季節的なものを含めてマクロ的な流れが意識に影響を及ぼすということが顕著になってきたように感じます。
そういえば最近のことになりますが、本ブログを通じてのご連絡に関してもタイミングがほぼ同時ということもあったりしました。それぞれの方々は、それぞれその他の方々と面識がない方々であると思いますが、示し合わされたかのようにほぼ同時のタイミングでご連絡を頂いたりしました。
もちろんそれ以外でも、ほぼ同時期に友人たちが一斉に連絡をしてきたりと、マクロ的な流れによる因果を感じたりすることがよくあります。
何かをしなければならないと騒ぐ時
調子が悪い時は「何かをしなければならない」と自我が騒いでしまいます。ツキに見放されたように感じる時、その状況をどうにか好転したいと考えるのは普通です。
しかしながら逆説的に、何かをしなければならないという騒ぎ自体が「調子が悪い」とか「ツイていない」ということの自己暗示に繋がってしまうという構造があり、さらに悪循環を加速させていくことにもなりかねません。
だいたい調子が悪い時は、その状態をどうにか突破しようとしてしまい、何かをやってみたりはするのですが、カスを掴んでしまったり、失敗が続いたりして、より一層調子が悪くなってしまうことがあります。
まあこうした時は、1の力で2をクリアしようと思って失敗して1の力を損失するという感じになっていたりします。
また、調子が悪い時は、かなり視野が狭まっています。なので選ぶもの選ぶものが「カス」で、カスを掴んだがゆえに大損をこいたり、さらに煩悶することになるという感じになっています。
選ぶもの選ぶものが「カス」
流れが悪い時にその状況を好転させようと前のめりになって物事を掴みにいってしまうと、選ぶもの選ぶものが「カス」という感じになってしまう場合があります。特に一発逆転的な発想の時はそれが顕著ですが、そうしたものでなくとも、たまたま手にとった商品が不良品だったということもよくあります。
普段なら見落とさないであろう「違和感」を察知する能力も低下しており、また、「考えるのがめんどくさい」ということになったりして、あまり検討せずに当座の不快感を解消したいという目的だけでパッと手にとってしまったりするというやつです。
「失敗」と「ハズレ」が連続
流れを見て静観する癖がついているため、最近では特に起こりませんが、20代前半の病中の頃はそうした事がよく起こったりしました。
思い返してみるとその中で「すごいなぁ」と思うくらいに「失敗」と「ハズレ」が連続したことがあります。
まあ別に大したことではないのですが、いわゆるやけ酒のような感じでワインを二本買ってみたことがあります。
そのうちの一本は、開ける時に瓶の口が割れ、「クソっ!」と思い、もう一本の方を開けてみると、底に塩の結晶のようなものが溜まっていました。
まあそれ自体は、酒石と言われるもので別に健康被害があるようなものではないのですが、その影響からか、ワイン自体が激不味で、すぐに捨ててしまうという結果になりました。
不運に見えることを大局して考える
ただ、表面的かつ消極的に見ると「カスを掴んだ」という感じでダメなことが連続して起こったというふうに見えます。
しかし、人生万事塞翁が馬的に大局して考えてみると、やけ酒による体のダメージや意識が暴走してしまい何かをしでかしてしまうことを避けたというふうに肯定的に捉えることもできます。
そう考えると無意識レベルで「あえてカスを掴んだ」ということも可能性的にはあるわけです。
表面上の意識が「どうしても」と欲しがるのに少し付き合いながら、無意識レベルで「でも、そうはさせないぞ」と仕組んでいるという自作自演の演出です。
意識で考えている問題を解決することが全てではない
そんな感じで、調子が悪い時は近視眼的に物事を捉えてしまいますが、後にふと心を静めて大局的に振り返ってみた場合、「まあその方が良かったんじゃないかなぁ」と思うことは結構あります。
意識で考えていることとは裏腹に、現実には「本音の本音の本音」に沿うように現象が展開していきます。
その本音と意識の一致率に従って、意識の上で「調子がいい」とか「調子が悪い」という感想を得るというのが本当のところです。
意識で考えている問題を解決しようとすること自体が「本音とは食い違っている」ということがよくあります。
何かをしなければならないと騒いでしまうのはわかるのですが、「どうせ今の状態で考えたことはロクでも無い」とか「流れが悪い時に動き出すとロクなことにはならない」という感じで、意識を静めていく方が理に適っていたりします。
恐怖心からの言い訳と静観の違い
こうした流れを見て時を待つという感じについては、ギャンブルを取り扱ったような漫画作品などで登場する「底辺」がいかにも言いそうな台詞です。
そうしたキャラクターの説く「今じゃない」というのは恐怖心からの言い訳、延長、モラトリアムの懇願であり、何かしら現状維持のためにと自分に言い訳をしているという感じになります。
しかしながら、心を落ち着けて静観し、時を待つというのは、恐怖心発端の言い訳ではなく、理に沿った積極的行為となっています。
静観することの難しさ
意識を落ち着けたり、物事を静観したり、流れの変化を待つということは、何もしていないようですが、その刺激や行動を避け「何もしない」ということの方が、何かしら衝動に任せて物事を行うよりも難しかったりします。
ある意味で、独房に入るようなものです。
娯楽的刺激に慣れた人たちが、外に出ることはもちろん、テレビやスマートフォンなど暇を潰せるもの全て、それらから何もかも離れて、ただ座るということを何時間続けられるでしょうか。
ということで、ただ座って意識を落ち着けるということの方が、騒ぎに任せて行動をしたり、ごまかすために他の刺激を得ることよりも圧倒的に労力がかかる行為ということになります。
落ち着きに従って調子は良くなる
調子の悪さから脱却したい、この問題を解決して落ち着きたいという気持ちとは裏腹に、そうしてもがけばもがくほどどんどん本音とは逆行し底の方に沈んでいってしまいます。
「何かをしなければならない」という騒ぎに勝ち、ただ座りこころを静めるということが上手くいくに従って、粗熱が取れるように、調子の悪さは消えていき、見えなかったものが見えていきます。
そして、本音が浮かび上がってくるに従って、問題が問題ではなくなり、もっと本音に近いところでの行動の方に意識が向いていきます。
通常の思考としては「何かの現象を経て、心穏やかになりたい」というのが基本構造ではありますが、「それならば、現象を通じず、真っ先に心穏やかになれば良いではないか」というのが、本質的構造となっています。
この自我を取り巻く環境条件を含めて静観することができれば、何事も自ずと好転していくはずです。
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