冗談ですませられる話

仕事上においては、いわゆるビジネスライクに過ごすこともありますが、対面する形で人と会った時、「あ、この人とは友だちになれる」と思える基準というものが、中学生くらいの時からあります。

それは、冗談ですませられる話を冗談ですませることのできる人かどうかと言うような点です。

世の中には本当に冗談では済ませられないタイプの話があります。特に、一過性では終わらず、その後にも負担が残るような悲惨なタイプのものです。詐欺被害などがその代表例でしょう。少なくとも損失補填などが解決しなければ笑い話にもできないという感があります。

しかしながら、特に実害などがなく、また、起こり得ないのに「笑うことじゃないわ」とか「そんなに面白いことなの?」みたいな感じで、ムッとするタイプの人とは、心底友だちになれない自信があります。

同情と共感などで触れていましたが、「お父さんが高飛びした友人」に対して「ギャハハハハハ!強烈やなぁ!」と爆笑するくらいでちょうどいいという感じです。

自分の中の笑い話が通じない

個人的には「感情の振れ幅が大きいものは全て笑うことができる」と思っています。なので、それが悲しみや恐怖、怒り、虚無感など、どのようなタイプのものであっても強烈さを笑ってしまうことはできるはずです。

それが証拠というわけではないですが、別に怖がったり気味悪がったりする必要はないのに、ホラー映画や残虐性を描写したようなグリム童話系のものに触れるような人もいますし、「ゆるせない」ということが笑いの軸として番組の企画が起こったりしています。

そんな中ですが、先日、大学生の方とお話した時、ジェネレーションギャップということなのでしょうか、海外での「ぼったくりバー代金踏み倒し作戦」とか、10年以上前に経験した「反社会的勢力の事務所に監禁された後、飲み屋に連れて行かれスカウトを受けてしまう事件」などに関して、笑うどころか引いていました。

過去は二度とやってこないという中、記憶としてその当事者である僕個人が「笑い事」として取り扱っているにも関わらずです。

別に笑ってくれなくてもいいですが、逆にそんなに引くことなのかと思ってしまいます。もっとひどい描写の映画などはいくらでもあるのに、という感じがしてしまいました。

この時は、社会的な立ち位置として僕の方にパワーバランスが傾いていたので、それほど問題ではありませんでしたが、立ち位置が逆なら、きっと「笑うことじゃないわ」という感じで返されていたのでしょう。

僕トイレに行ってくる

ちなみに僕はこの手の「笑えないよ」系の人のことを「僕トイレに行ってくる」の人と呼んでいます。

小学生の頃はさんざん「う○こ」に反応してきたはずなのに、○玉が成長し、異性を意識しだしてからは言えない、という感じの人です。まあ関係の浅い人たちと一緒にいてマナーとして、という感じならばいいですが、同性間で同級生の間柄にあって、「僕トイレに行ってくる」はないだろう、ということです。

「数年前までう○こに爆笑していただろうおまえ」という感じです。

ということですら、冗談ですませられる話であるはずですが、「笑うことじゃないわ」とムッとした人がいるとすれば、まさに「冗談ですませられる話を冗談ですませることができない人」です。

笑う月(一覧)


笑いのポイントについては、原始的で普遍的な部分もありながら、時代によって変化する「社会からの要請」と「両価感情の一方の抑圧のあり方」によって、ジェネレーションギャップが生まれたり、男女で差異があることは致し方ありません。

ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのか

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