一時期やたらにインターネット上で著者を示そうとか実名で公開させようとするような流れがありました。しかしそれは、インターネットの役割として相性が悪く、頓挫する形になりました。
まあインターネットの匿名性は、時に社会の中で問題となることがありますが、そうした場合被害者側の思いばかりが語られ、匿名性がもたらした害悪だということが語られたりしています。
そうした問題自体は、インターネットにまつわる一つの問題としての側面として、事実として検討してくべきポイントとなります。しかしながら、いわゆる加害者側にも動機の発生から実際の行動までの間に必ず原因があるわけです。
なので、その原因を無視し、結果だけを見てそれを抑止力をもって防ごうとするのは近視眼的と言わざるを得ません。
確かに犯罪領域にまで踏み込んでいるものに関しては、被害者の心情も検討し、強制力をもって対処していくと良いでしょう。実害を被っている人がいるのならば、それに応じた対処をするべきですし、きちんと対処することで犯罪に対する抑止力を作ることはできます。
しかし、根本問題を無視したり、匿名性がもたらす恩恵を無視したりすることは、表面的なシステムだけ整えれば良いという発想と同じです。
犯罪の抑止のために、匿名性を排除しようという安易な発想は、単に全員を監獄の中に入れるようなものです。まあ手抜きですね。
人々が抱える問題と匿名性
実名で公開しようとか、堂々とした意見であるのならば実名で良いはずだという発想をする人たちは、だいたい坊っちゃんとかお嬢さんです。
まあ技術的なことであったり、社会的なことであっても、より表面的なことであれば別に実名でも良いでしょう。
しかし、例えば、夫のことを相談する妻とかその逆とか、自分が抱えている病気のことであったりとか、古くは教会で神父が行っていたような懺悔のような領域であるとか、そうしたことについては、実名のやり取りは様々な弊害がもたらされます。
実名をキーワードとして検索され、そうした相談内容が関係者に見つかってしまう場合があります。
そうなると、
「何勝手にネット上で相談してくれてんの?」
とか
「そういう病気があるなら採用は無しだな」
とか
「そんな経歴があったのなら関わらないでおこう」
といった感じで、実際に社会の中で不利益を被ることがあります。
また、間接的に自分と関係する人たちが無駄な判断をされてしまうことがあります。
「あの人の旦那は、実は〇〇なのよ」
といった感じですね。
それが何かの本題とどう関係あるのか、と思ってしまいますが、よほど「目覚めているような人」でないと、そうした感じで何かの情報を得ると認知が歪んでしまうということが起こります。
そういうわけなので、匿名性があればあるほど、本音が外に出やすいという感じになります。
深いところで話をしたいのに、後の社会的な評価の変化を恐れて本音を言えないということは、より深い議論ができないということです。
抑圧されたものを外に出そうとしているのに、それがさらに抑圧されてしまうという感じです。
前提情報による認知の歪み
まあ本来の意味でのプライミングですが、凡夫は、先行する情報が後続する情報に影響を与えるという感じで、ある情報がもたらされると、その情報に影響されてその後に得る情報の解釈の仕方が変わってしまったりするわけです。
「肩書に影響される」というのもその一つです。
誰が語っても内容が同じなら、その中身は同じにもかかわらずです。
そんな感じで世間では「誰が」というところを重視する傾向にあります。
で、「誰が発したかを確認したい」と思っていて、発した誰かの評価を決めて、またその評価をもって次にくる内容の判断をしようという感じになっています。
そういうわけなので「誰が」を求めて、それが誰によってもたらされたかということで蓋然性の判断をしたいということを思っているわけです。
で、それは単に学術領域だけでなく、日常の他人への評価でもなされているわけです。
で、そうした評価が、実質的に日常に多大なる影響を与えるからこそ実名では話せないということになっています。
本当は関係がないにもかかわらず、関係があるように取り扱ってしまう人で溢れているからです。
表と裏と抑圧
まあ些かフロイト的にはなりますが、人とコミュニケーションを取っている時、概ね人には裏があります。
それはわかりやすい「邪な気持ち」というものだけではなく、軋轢を恐れて若干飲み込んでしまう部分も含まれています。
まあいわば争いを生まないための我慢のようなものですね。
で、そうした我慢した分がその場で終わってくれるかというと、阿羅漢でもない限りそれは終わってはくれません。
人が日常100%の本音で生きているかというと、必ずどこかで我慢をしているでしょう。
簡単なところで言えば、電車の中で本当は座りたいのに人が一杯で立っているという時でも、若干の我慢はあるわけです。
それほど大したことではありませんが、もし、何の問題もなく全部自分でコントロール可能なら、全員を立たせて自分が座るはずです。まあ人によっては「健康のために立つ」という場合もありますが、大半の人は「自由に選べるのなら座る」という感じになるでしょう。
そう考えると、例えば、電車内で隣の人がスマートフォンをいじっていて、20秒毎に「タコタコ、シュワ~」と音を鳴らすことも、別にそれほど問題ではありませんが、全部自由ならその人ごと車外に追い出すはずです。
そういう意味で「騒ぐほどではないが、若干不満なこと」とか「別に問題ではないが、若干鬱陶しいこと」というのは日常にたくさんあります。
で、そうして「別に怒り散らすほどじゃない」というようなことで、それでも自分が若干我慢していることは、全て抑圧されたエネルギーとして溜まっていくと考えてみましょう。
エネルギーを吐き出す空間
そう考えると、昔を懐かしむわけではありませんが、僕が中学生くらいの時は世の中がまだ穏やかでした。
もちろんそれに付随して、ゴミのポイ捨てがあったりとか放置自転車だらけだったりもしましたが、世の中が温厚でした。
近年を眺めてみると、管理者責任を問われることを恐れたり、テロ対策だとか言ってみたり、観光地として恥ずかしくないようになどと言いながら、屋上が立入禁止になったり、公園の遊具やゴミ箱が撤去されたり、公衆トイレが無くなったり、駐輪場もロクにないまま自転車が音速撤去されるという時代になりました。
確かに表面上は、美しい世の中になっているような感じもしますが、考えてみると社会がやっていることは「人を制限しているだけ」だったりします。
特に近年では条例を使って「人を制限する」ということしかしていません。そんなことで万事解決するはずはありません。
公共性を考えて路上喫煙を禁止するのはいいですが、喫煙所はほとんど無く、さらにあってもたいてい雨ざらしです。交通の安全を考えて自転車の駐輪を禁止するのはいいですが、駐めるところがありません。
「ダメですよ」と言うのは簡単です。
でも、それによって生まれる歪みは必ず人の「取り立てて騒ぐほどではない不満」を高めることになります。
そうして、生まれた「微かな不満」はどんどん溜まっていきます。
そしてかつては抑圧される部分も少なく、かつ、そうした部分を吐き出す所がたくさんありました。
しかし現代では、吐き出すところすら制限の対象になりました。
「真面目でいい子ぶらなくてはならないこと」で抑圧されたエネルギーが、さらに吐き出せなくなっているという感じです。
ゲームセンターという空間
僕は小学生の頃から高校生くらいまでよくゲームセンターに行っていました。
「小学生や中学生がゲームセンターに入り浸るなんてけしからん」
という人もいましたし、そんなとこに行くとカツアゲされるとか、不良になってしまうという感じで思っている人もたくさんいました。
しかし、小学生の時から別にゲームセンターはそういう感じでもないということを実感していました。
確かにいわゆるグレたような人もたくさんいましたが、格闘ゲームで対戦したり、ファミ通にしか載っていない裏必殺技のコマンドを教え合ったりして、普通に友達という感じでした。
変な人が来てもその人達が守ってくれたりもしたのです。
お金やゲームソフト、裏技本などをカツアゲされたことはありません。
学校も年代も異なる未成年が、ゲームを通じて裸になれるというような空間でした。
でもその実際を知らない大人の人たちは、何となくのイメージで、人をダメにする空間だとレッテルを貼ったりしていたわけです。
でもそうした「制限をしてくる大人の人たち」の前で、多少なりとも我慢をしているような人たちが裸になれたような空間でした。
顔は知っていますし、制服からどこの学校かを知ることもできましたが、みんなのフルネームなんて知りませんでした。
あだ名で呼び合ったりはしていましたが、「どこの誰か?」ということが曖昧で、ある意味匿名性すらあったわけです。
「いついるかはわからないし、本名も知らない、歳もはっきりしない友達」
という感じです。
で、小学生の僕に対して高校生くらいの人が、「おばはん、どつきたいわー」などと、話してきてくれるわけです。そうすると僕も「なんでなん?」とか小学生ながら聞いたりしてしまいます。
そうやって、裏の顔として抑圧されたものが吐き出せるような空間だったという感じがします。その時で言えば、僕は小学生だったので、特に抑圧されたものが無かったのでお話を聞く一方でしたが、あれはあれですごく良い空間だったのではないかと思います。
空間の移行
以前何かで読みましたが、テレビ視聴率の低下の要因の一つとして居酒屋ブームがあるという感じで語られたことがあったそうです。
まあ確かに、小学生から中学生の頃であればゲームセンターで裏を吐き出した人たちも、そこで吐き出せるので家でボーッとテレビを見るという感じで過ごせたのでしょう。
その後、ゲームがゲームセンターから家庭へとシフトしたりした中、やはりどこかで裏に溜め込んだものを吐き出す必要が生じた人たちは「外に出た」という感じになるでしょう。
僕たち世代はそれが「コンビニ前」であり、ドリンクのみで朝まで話すという感じで過ごしていました。
ただ、それから携帯電話、インターネットが普及するに連れて、匿名ゆえに一切気にせずに抑圧されたものを表現する空間が広がっていきました。
もちろんそれは言語領域を中心とした表出しか叶いませんが、それでも身の回りよりはより広い範囲でそれが叶うため、より自分の問題と同様の問題を抱える人との距離が近づいたという感じになりました。
で、そうなったときでも、やはり表現されるのは、裏に溜め込んだ部分です。社会の中で抑圧された裏の部分が外に出ます。
もちろん社会と言っても広く一般的な社会のみならず、夫婦や親子、友人といった二者以上で構成される全ての空間です。
そんなわけで、インターネット空間に出てくる「裏の部分」は、大半が「社会との協調」のために我慢された不満不服の部分です。
社会が「より本能を抑制するような人間像」を求めれば求めるほど、抑圧のエネルギーは高まります。エネルギーが高まる上に吐出口すらも制限されれば、それこそ考えられないような凶悪犯罪が生まれてきてもおかしくはありません。いわば暴走ですね。
そして「それは暴走した本人が悪い」とするのは、居直りです。
暴走する人にも暴走する人なりの動機の形成があるからです。そしてその動機は、「本人以外がもたらした情報」によって生み出されているからです。
そういうわけで匿名性のあるインターネット空間には、裏に抑圧されたエネルギーの吐出口としての機能があります。
周りには理解者がいない中、同じ境遇の理解者を発見することもできるかもしれませんし、自分の抱える問題を解決に導く何かを発見することもできるかもしれないのです。
それには匿名性がキーポイントとなります。そうした問題を解決したいのに実名で行うことには「他人の評価による実害を予測する」という制限がかかるからです。
アーカイブ性と不特定多数への発信
ただ問題があるとすれば、インターネット特有のアーカイブ性と不特定多数への発信という点です。
居酒屋での会話はその場の一回性があり相手も限定的です。また、メールでのやり取りならば個人性があります。
しかしインターネット上の活動は、時に犯罪として取り扱われてしまうことがあるという感じです。アーカイブ性と不特定多数への発信という性質を持っているため、意図せずとも名誉毀損や信用毀損といった犯罪に該当してしまう可能性を含んでいます。
さらにふと我に返った時、「爆発的なエネルギーから為してしまったが、消してしまいたい。しかし、消すことができない」という感じになったりもします。
裏の加速
と、そんな感じで考えてみると、近年では、我慢にあたる「裏」の部分が加速している感があります。
客観的合理性が主流となり、男女の仲ですら客観的データを参照しそれを中心として思考で判断するような時代になってきたからです。
しかしそれは、一種の合理性はありながらも、裏に不満と不安を作り出していきます。
データに依存するということは不測の事態が起こった時に、関係は保証されないということを意味しているからです。それで安らげるはずはありません。
モッガラーナ風に言うと男女共に「皮膚で繋ぎ合わせた糞袋」であるにもかかわらず、「私は糞袋ではありません」という演出をしなければならず、美しく整っていなければならないような脅迫があります。
飲み干したあとの空き缶をきちんとゴミ箱に捨てるということ自体はいいですが、「『今すぐこの場で捨てたい』などと思ったりするような人間ではありません」という演出をしなければならないという感じです。
その上「派遣の方はこのゴミ箱にゴミを捨てずに持ち帰ってください」などと言われたら、怒り狂うのも無理はありません。
でも怒り狂っても仕方ないから怒らない、と。
でも「怒り狂うことなんてできないだろう?」という策士の術中に従っている自分も嫌なわけです。
そうやって合理性から導き出して「制限」をしているからこそ、犯罪が起きるということをお忘れなく。
端的に「制限すればいい」というのは手抜きですよ。
最終更新日:
いつもありがとうございます。
今回も勉強をさせて頂きました。
コメント違いで申し訳ありませんが、今回の記事を拝読させて頂き、「オンラインサロン」を思い浮かべました。
直接、匿名性には関係ありませんが、ネットと言う媒体のサロンで学びを得る…と言うことに違和感を感じていました。
個人的にはサロンなど加入しなくても、bossuさんの様な質の高い教養をお持ちの方から学ぶ方が性に合っています。
何か拾えるものがあれば拾ってください。
ご不明点があれば何なりとどうぞ。