真我の否定、心と意識の違いと諸法無我といった感じで、ここでは、ご質問のご連絡を受けた中から諸法無我に関連したものを一般化して残しておきます。
「真我という概念の否定」、「色即是空の空」、「心身二元論・霊肉二元論と心」、「心と意識の違い」、「一つのチャネルである意識」、「認識する働きである心」についての質疑応答について記載しています。
諸法無我は、極めて理解しがたい理になります。
諸行無常や一切行苦に関しては、概念の抽象度を落としてでも示す事ができるため、その解説が比較的たくさんあると思いますが、諸法無我は、レベルを下げて語ることがほとんどできないため、頭で理解するにもなかなかし難い側面を持っています。
具体的に記述しようと思うと、論理の罠にハマり、逆に抽象的に印象を語ると抽象的すぎてそれが掴めないといった感じです。
「真我」という概念の否定
諸法無我で触れていましたとおり、真我というもの概念自体が自我が作り出したものであり虚像です。
自我とそれ以外という感覚ではなく、自我自体が外界との分離の印象を作り出している虚像という構造になります。
真我や魂という言葉を使う人がよくいますが、それは固定的な我がいて、輪廻のうちでその我は、他に転生するということをいう時の中心となる主体を指しています。
しかし諸法無我に示されているように、我が実在し固定化されているものではなく、あらゆる関係の中から生じたその瞬間の状態に過ぎず、諸行無常ゆえにそれは変化するため「あるのでもないのでもない空のような状態」であるという感じになります。よって諸法無我に固定的な「我」の否定の証明がなされているという感じです。
もしかすると、「自我と真我」について、バラモン文化におけるアートマン(Ātman)とブラフマン(brahman)という概念のことかもしれないという前提で補足をさせていただきます。
元々「真我」という概念は、バラモン文化などにおける「生まれ変わりの軸となる、主体となる魂」というような意味合いがあります。
これが、アートマンと呼ばれるものです。
しかし原始仏教ではその魂、真我の概念を否定しました。
アートマンとブラフマンという二元論においてそれが同化するという視点ではなく、この心はただ受け取っているだけであり、その視点が自我であり、自我そのものも他との関係性の中で今その状態になっているものであり、固定的な我というものが「ある」わけではありません、というのが諸法無我です。
一度言葉によって概念を把握し、観念が形成されてしまうと、思考の限界までたどり着かないとそれを突破しにくくなったりします。
どのような概念であれ、人が説いたものはその人のフレーム・視点で表現されているため、どのような時でも、ご自身の感覚を大切にして、思考実験や現実に確認できることだけを頼りに、思考の限界まで検討してみていただけると良いと思います。
欲は根本的には生命エネルギーから自動発生するものでありながら、そのエネルギーが形付くかというところは、「この私」としての自我の思考が行ったりしています。
ただ根本をたどると、その生命エネルギー自体が「自分がゼロから生み出したもの」ではない、というところを踏まえて諸法無我を捉えてみていただければ良いと思います。
元々仏教では諸法無我において真我という概念自体を否定しており、空は後世のものであれ仏教の概念で、真我はバラモン・ヒンドゥー、もしくは道教などにおける概念になります。
といっても仏教だから正しいというわけではありません。
何かの主義や思想の範疇を超えた科学的な理を単に示しているに過ぎないという感じです。
色即是空の空
空という概念は原始仏教よりもだいぶ後から大乗仏教において出てきた概念であり、さらに色即是空を説く般若心経は中国か日本で作成されたものであるという形で捉えておいてみて下さい。
ただ、「あるわけでも、ないわけでもない」というニュアンスの表現としては的確だと思います。
色即是空は、形あるものは空であるというようなことですが、
全てが常在なるものではなくあるのでもないのでもない「空」ですので、どのようなものでも一切の形成されたものは、そうした空であると考えることができます。
その時に「自分よりも外側だけが空で、自分は違う」ということになるのが執著です。
そうした執著が苦しみを生み出すという形で捉えてみて下さい。
なお、諸行無常等々、法則である「理」は「形成されたもの」ではなく、そうなるような法則というだけですので、変化する云々はナンセンスとなるということにはご注意下さい。
心身二元論・霊肉二元論と「心」
哲学上の人の心の定義は、哲学者によって様々ですが、一般的な用法である「心」は、「意識」との区別がついていないような印象を受けます。
あくまで「自我が起こした情報状態」を「認識する働き」が心だと考えてみていただければ良いと思います。
それが目で見たことであれ、何かに触発されて考えたことであれ、「この私」という自我が今起こしている「情報状態」をただこの心は受け取っているだけなのだ、という感じです。
そうなるとその自我の状態をその状態にしたのは、自我以外の情報たちです。
そうなると自我はただの集合地点にしかすぎず、それも自我以外の情報から形成されているということになります。
心と意識の違い
心と意識の違いについて少しだけ触れておきます。
一般的には心と意識は同一のものと考えられがちですが、ここでは心は認識する働き、受け取り口、つまり受動的な対象として定義しています。また、意識は、心に情報を投影する一つのチャネルとして、言語的、イメージ的な関数の集合体であるというようなイメージです。
もちろん一般的な会話においてはその明確な区別をする必要はありませんし、本ブログでも雑記等では言語表現として曖昧に使っている部分もあります。
一つのチャネルである意識
一般的には「気持ち」のことを心と呼んだり、意識のみならず心が受け取る領域の学問として「心理学」という名称があったりするので、心と意識が同一のものであるというイメージがありますが、ここでは、関数の集合体であるというような感じで扱っています。
それは、何かが入力されれば何かを出力するという感じです。そして出力においては、心といわゆる外界に出力するという感じです。リアルタイムで起こった思考としての演算もそうですし、その結果起こった感情すらも意識の範疇です。いわば反応ですからね。
もっと詳しく記述することもできますが、それはまた別の投稿で行おうと思います。
認識する働きである「心」
心はあくまで認識する働き、受け口だけであり、意識からの情報を受け取っているだけの対象であるという感じで受動的なものといった前提で捉えてみてください(心とは何か)。
心をそう定義すると、極論的には意識の働きすらも自動で起こったことであり、すべての情報をただ自動的に受け取っているような感覚になり、最終的には受け取りだけになるという感じのイメージをもっていただければと思います。
感覚や体感と言うとそれを得る主体としての自我が「ある」と論理上は考えてしまいますが、様々な動き、働き、つまり感情や感覚、思考を含め「形成されたもの」が他人事のように常に変化しています。
それが他人事のように展開しているのを傍観するかのように「ただ自然に心が受け取っているだけ」という感じで捉えてみてください。
受け取りの「心」と、情報を演算し出力する「意識」とを分離して捉えていただけると理解が早まるかもしれません。
あくまで言葉や概念に縛られないように、また何にも依存すること無く、ただ当然の理と自分をよりどころとしてあるがままの現実を見破ってください。
最終更新日:
なにもない空間に、空間はあるのでしょうか
何もない空間は、情報空間の中でしか想起できません。
数学空間の中のゼロと同じです。数学空間のゼロも相対的に捉えられた上での観念でしかありません。
仮に何もない空間であったとするならば、何もありません。
そうした架空の観念であってもそれが形成され、心が受け取らないとまさになにもないという感じです。
何もないというのはイメージの中での想定であり、何もないというのも、何かが確実にあるというのも両方とも意識が生み出して心が受け取った想定です。
有無を統合した空間だという感じで、捉えてみてください。
何もない空間には空間はないというのも、何もない空間にも空間はあるというのも、観念的な情報空間の領域で想定することしかできません。
ゼロや虚数といった観念を利用することで解くことができる領域があったとしても、それが別の空間において「存在する」というわけではないという感じで、そうした観念すらも利用してみてください。
※コメントフィルタに引っかかっていたようで、発見が遅れてしまい恐れ入ります。