尊厳・自尊心と承認欲求ということで、人の尊厳や自尊心と他者からの承認、そしてそうした承認を欲する承認欲求について紐解きながら、それらを根本から覆していきます。
「人は他人から自分の存在を確かめる」とでも言いたげに、社会においては尊厳や自尊心を当然のものとして扱い、他者からの承認をもって尊厳を保っているとでも言いたげです。
それこそが人の幸せを決めるものであり、承認欲求は当然に起こる欲求だとでも思っています。
しかしそんなものは必要ありません。
「承認欲求を満たす」とか「自尊心を満たす」という方向性でばかり様々なことが語られていますが、根本的にその領域から脱してしまえばよいのです。
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最近では「承認欲求」という言葉が浸透してきているからか、侮蔑の際に「何それ承認欲求?」というような表現も多くなってきていると弟子から聞きました。弟子自体からも「別に承認欲求というわけでもないんですけど」という弁解を受けることも出てきました。
何じゃそりゃ…
承認欲求と言えば欲求五段解説だが…
承認欲求という言葉がよく出てくるのはマズローの自己実現理論、欲求五段階説ですが、根本的にそうしたマズローの説を盲信している時点でレベルが低いということを思っておきましょう。
なぜならマズローの説は、所詮アイツこと自我の内側で考えられるギリギリのラインで検討した仮説だからです。
といっても戯言のように思う人もいると思いますので、簡単に触れておきますが、自己実現理論は「欲求があるのだからそれを満たそう。そして質の高い欲求に意識を向けよう」という「欲」の肯定から始まっています。
欲があるのは自然なことで、その欲をどう満たすかという方法論的なものが多く、自己実現理論にしても、「欲にも質があって、下位の欲が満たされている人は上位の欲に意識が向く」とでも言いたげな発想です。
しかしながら、欲を満たすということは、あくまで自分で穴を掘って埋めているにしか過ぎません。
承認欲求を当然のものとし、誰しもが承認されたいと思っている、認めれられたいと思っているなどと思うこと自体がまだまだ錯覚の内側であり、自分で掘った穴であることに気づいていないということになります。
自己承認欲求であろうが他者承認欲求であろうが自分という錯覚により自分で掘った穴
承認欲求には一応「自己承認欲求」と「他者承認欲求」があると言われたりしていますが、いずれにしても「自分で掘った穴を埋めているだけ」という感じです。
「自己承認欲求」は自分自身で自分を承認するということ、「他者承認欲求」は他人から承認されたいと言うようなことになりますが、どちらにしても「自分という錯覚」によって掘った穴を埋めているだけです。
生理的な体の都合という純粋な本能レベルを超えた欲は、アイツこと自我がある衝動を別物として変換して与えてきているにすぎません。そうして自然と起こる「欲」の本質を見破り、それは錯覚ゆえに起こっているのだということを見抜くと欲に振り回されなくなります。
いわば根本から無駄な欲、無駄な欲に伴う煩い、つまり煩悩を消してしまうということです。
「具体的な問題をどう解決するか?」ということよりも、「根本的にそれが問題であるというのは本当か?」というところから考えてみましょう。
承認欲求の捉え方
さて、承認欲求の捉え方として「それが実在するというわけではない」という感じでまずは感覚を掴んでおきましょう。
「承認欲求がある」とか「承認欲求というものが無い」といった二元論的な捉え方ではなく、「承認欲求というものは朧気な幻ではあるが、幻に反応するということはある」という感じで「空」的に捉えておくということです。
何事も、それが全く無ければ反応することもありませんし、反応したからといって実体があるというわけでもないのです。
例えば、映画を観ていてドキッとすることがあったとして、映画の中のシーンなのだから実際に起こっているわけでもなく、ただの視覚や聴覚の情報として流れていったものでありながら、この心は「ドキッ」を感じたということは事実として起こったりします。
その時の反応は確かに起こったことですが、反応があったからと言って映画が現実というわけではないというの同じように、承認欲求というものは、「確実にある」といった感じで実在しているわけでも何でもないものの、錯覚によってそうしたものがあるかのような働きが起こるという感じで感覚を掴んでみましょう。
「自己承認欲求」と「他者承認欲求」
承認欲求には自己承認欲求と他者承認欲求といった分類がありますが、「自己承認欲求」は、自分で自分を認めたいというブラック企業で過労死してしまうようなナルシストといった感じで、自分で決めた自分らしさを求めているような感じです。「こんなことでくたばるのは男じゃない」というような感じですね。
一方「他者承認欲求」とは「すごいですね」を欲して夜の街に繰り出すような人々を筆頭に、「私を見て!」、「僕を認めて欲しい」、「オシャレだと思われたい」というような感じで他人からの評価によって己の存在を確認しているような人々が持つ「他人依存」です。
これらは共に人間ならば「当たり前に持つもの」などと言われたりしますが、それは生存本能がもたらす恐怖心発端の錯覚によって「ある」ように感じているものというのが本当のところです。
ただ、「承認欲求は寒い」といった感じで、これらの人々を非難するためにこうした概念、特に「他者承認欲求」のことについて考えるよりも、己の心を観るために、渡り切るための筏、登り切るための梯子としてこうした概念を利用しましょう。
ともすれば、「他者承認欲求」によって人が行っている行為の様子を見てそれを非難するということになりがちですが、その非難という行為自体が「他人」を通じて己を高めようとするというような落語のような構造を持ったりします。
「他人の他者承認欲求を発端とした行為を見ることで自己承認欲求を満たそうとする」というような構造になっているという感じです。
「承認欲求の否定」のあり方
さて、「承認欲求の否定」といえばアドラーなんかが唱えていたりしますが、ともすれば承認欲求の否定という概念は「他人を叩くための材料」として利用されたりしてしまいます。
彼自身はどういうつもりでその概念を唱えたのかは知りませんが、「承認欲求を否定する」という言葉が独り歩きすると、「じゃあこの感覚は何なの?」ということにもなりかねません。
また、否定するとしても「そうならば根本から無いはずであり、否定の対象概念が出てこないはずだ」というようなことも検討することができてしまいます。
そして何より、承認欲求というものが苦しみの概念であるならばということで、それを善悪基準で「悪」とし、そうした欲求に駆られて行動する人たちを非難する材料にしたりするということも起こりえます。
まさに弟子が教えてくれた「何それ承認欲求?」の世界ですね。
何事も他人を裁くための概念として用いるのではなく、己の心と照らし合わせるために用いるのが賢明です。
でないと「アドラーという『権威』によって否定された承認欲求に駆られているなんて低レベルですね」という感じのことにしかなりません。
「偉い人がバックについているんだぞ」的なその判断自体がナンセンスであり、「承認欲求を否定することで、承認欲求を満たす」という落語のようなオチになっているということに気付いたほうが良いでしょう。
おそらく彼は治療のために一つの概念を唱えただけで、何も倫理学的な人のあり方の提案のために、人を比較するために提唱したわけでもないと思いますが、結局「アイツ」は「誰かを叩いて自尊心を高めよう」という解釈ばかりしてくるため、どのようなものでも利用するということになるのでしょう。
承認欲求というもの自体が「空」
承認欲求の否定についても、有無の二元論ではなく、「承認欲求というもの自体が空である」という感じで捉えた上で「他人を判断するために用いるようなものではない」、ということを踏まえて己の心のための梯子や筏として用いましょう。
どのような概念であれ、己の意識単独でのあり方と、それが人と人との関連性で示される社会という領域では、視点が大きく変わってしまいます。
別に承認欲求云々でしたことでなくても社会的な関連性の中での「行動」を他人が判断した場合、「承認欲求を満たそうとしている」という判断をされかねませんし、仮に世間で言う慈善事業のようなことをしても「偽善」や「売名行為」と判断される場合もあります。見る人によっては好きなだけ社会的解釈ができるので、いずれにしても他人のことなどどうでもいいのです。
そういうわけで、承認欲求を「誰しもが持つ実在のもの」として扱い「具体的な問題をどう解決するか?」という感じで解決を目指すことよりも「根本的にそれが問題であるというのは本当か?」というところから考えてみましょう。
他者は本当にいるのだろうか?
ではいきなりですが、他者は本当にいるのでしょうか?
他者の存在は哲学的に見ると「存在する」ということを言い切ることはできません。
例えばメールをしていて、相手が存在していて返信をしてきたと思っても、実は相手がAIだったらどうでしょうか?
「目の前にはしっかりと他人がいる」ということをどのように確認しているかと言うと、目で見て視覚的に声を聞いて聴覚的にという感じになっています。
そのような感じで、目に映ってもそれは目から入ってきた情報を自分が受け取ったにすぎず、それの「実在」を確実に保証するものはどこにもないのです。
しかし全く何も無ければ、他者の存在を「感じる」こともないはずです。
ということで、あるわけでもないわけでもない、と言う感じです。
そこで考えてみたいのですが、いずれにしても目の前の物理的な現象があるのかないのかは宙に浮いているものの、この意識の中でひとまずは何かを感じているはずです。
ということは、そうした目の前の現象の解釈には自分の意識が介入しているはずです。
それが目の前にあったとしても、自分がそれを見ることがなければ無いのと同じですし、見たあとにそれを判断する思考がなければただそうした絵を見たことにしかなりません。
そんな中、他人についてはどう考えればよいのでしょうか?
あるともないとも何ともよくわからない感じになるはずですし、相手も自分も常に変化をしているので、固定的なものではないはずです。
で、そんな中、よくわからないものの「承認」がどう必要なのでしょうか?
「承認の実感」は己の内側で起こっていること
さらに「認められた」などと感じるのは結局全て己の内側で起こっていることです。そしてそうした認定、解釈も自分の内側で起こっています。
「好きです」と言われても、それを自分がどう解したかによって変わりますし、その現象はすぐに流れていきます。
というのが本質的な理のはずですが、その中で承認を求める欲求というものは本当に正しいのでしょうか?
そしてそれを満たそうとすること自体は、本当に必要なことなのでしょうか?
社会を軸にして考えると誤謬にたどり着く
尊厳の必要性を当然のものとしてしまえば、当然に承認が必要になってきます。
しかし、そうした尊厳を保てば、他人からの承認によって自尊心を満たせば幸せになれると思うのは誤謬です。
「誰しもが誰かに認められたいと思っている」という承認欲求を当然のものとし、誰かに承認されることで自尊心が満たされ、尊厳を保つことができると思い、尊厳を保つことができれば自分は安心で幸せになれるというような見方です。
これは「社会の中の自分」という世界観を発端としています。客観的な世界、客観的な時間というものを前提とした仮観の世界観です。
そうなると周りの承認が尊厳の条件となり、尊厳が幸せの条件となってしまうため、周りの状況によって自分の幸せが振り回されてしまいます。
また、承認欲求の延長で、その上位概念として「自己実現の欲求」というものもありますが、それは対象が他人から「神」にお引越ししただけの承認欲求のような感覚です。
かつてのプロテスタンティズムなんかは、「神に認められるような行い」を指針としていました。いわば直接的な「承認」と言う感覚ではありませんが、自分の信仰心の表れとして、どうすれば神が喜ぶかという世界観で、自己実現のようなものをしていたということです。
これは、「同級生はさておいて、偉い人に承認されたい」というものの延長であり、承認を欲する対象が「偉い人」から非言語的な「神」という抽象概念に移っただけという感じになります。
まあある種自分の内側で完結しているので、「自己実現」と言う感じにはなりますが、紐解けば承認の粋を出ていないのです。
根本にある「恐怖心」を何でどう誤魔化すか、という領域の話になります。
自己実現理論は、生理的欲求から始まり、安全や社会という感じで段階が上がっていくというふうに説明され、下位の欲求は自分の外側に、上位の欲求は自分の内側にと理論が展開されていますが、自己実現にしても一応「外ではなく内」ではあるものの、意識の中で作り出した「外」であるということです。
アイツが持つ恐怖心がどのように化けて出てくるかという意味では参考にしても良いような理論ですが、彼の言う自己実現がゴールではなく、すべてアイツの錯覚の内、恐怖心の形が変わっているにしか過ぎないのです。
承認欲求をどう捉えるか
世の中には「褒めて欲しい」「認めて欲しい」というようなことを平気で言う人がたくさんいます。
「ここまでやった私を褒めて欲しい」とか「頑張った自分を認めて欲しい」というようなやつですね。
例えば「認めてもらえなければご飯が食べられずに餓死する」というのであれば、そうしたものも理解できますが、「褒めて欲しい」「認めて欲しい」などと言っている人は、単なる尊厳・自尊心の都合で、自分の尊厳を保てないからといって人にすがっているにしかすぎません。
それをしたところでどうなるのか、とすら思ってしまいますが、根本問題としてはそうしたものは虚像であるということを悟ってもらうしかありません。
「褒めたところで何が変わるのか?」とか「認めたところでどうなるのか?」という本質的なところをよくよく考えればすぐに分かるはずですが、世間ではどうも「承認欲求は誰しもが持つものです」なとどいってそれが実在していて当然のものであるかのように語られています。
世の中の大半のサービスや付加価値はこうした尊厳に基づいてそれを「満たしてあげよう」という感じで設計されていたりします。
他人からの承認がなければ恐怖心を誤魔化すことのできない人たちにとって、そうした承認は助け舟にしか見えません。
裏を返せば「自尊心の満たされないあなたたちなら、このサービスに飛びつくでしょう?」というようなものでもあります。
また、何かの肩書で承認を得ようとする人たちもいます。しかしたいてい椅子には限りがあり、世界一ということになればそれはひとつしかありません。
そうしたもので満たされようとする人達にあっては、同じような人が全て敵に見えます。それをもって己を満たそうとしている力が強ければ強いほどです。
そしてそれによって満たされていると感じるとすれば、それを失うことへの恐怖心が生まれます。だから安定した安穏には程遠いのです。
不安定なところに安穏はない
自己実現にしろ何にしろ「何かをすれば満たされる」と言う構造は、「何かをしなければ満たされない」ということの裏返しであり、「満たされている状態が崩れればまた欲求が生じる」というものを内在していることになります。
だから所詮穴を掘って埋めているにしか過ぎないのです。
そこには永久に安穏はありません。一時的に忘れることができたりするかもしれませんが、諸行無常ゆえにそれが崩れ去る可能性があるという理からは逃れることができません。
ということで、「承認欲求」は錯覚であると気づきましょう。
そうすると人が承認欲求を持っている状態を見ても、慈悲の心、どちらかというと「苦しみが無くなるように」という「悲」の心が起こるはずです。
「承認欲求を満たさねばならないというアイツの騒ぎに苛まれている憐れな者よ」と言う感覚が芽生えるはずです。
承認欲求を見抜いた上でのマインドコントロール
もちろん「けなす」よりは格段に良いのですが、世の商売上手は相手の承認欲求を見越した上で「褒める」ということをやったりします。褒めることで売上を上げようということです。
つまりこれは深読みすると「承認欲求を見抜かれ、それを満たすような行動をされることでマインドコントロールされている」ということになります。
これは昔、リストカット癖のある元水商売の女の子が、ある企業の社長に囲われている様子を観察した時に気づきました。
その社長はすごく褒めるのです。口癖は「すごいすごいすごーい」です。
しかしそれは策士による策略だということにすぐに気づきました。僕は昔から褒められて嬉しいと思ったことは一度もありません。ということで、結構冷めた目で冷静にその状況を見ていたのです。
「単なるマインドコントロールじゃないか。最終的に自分都合の状況を作るための体のいい戦術じゃないか」
そんなことを思いました。
承認欲求を満たすことの是非
ここでカントの定言命法的な感覚で物事を極端に考えてみましょう。
社会の全員がけなし合うか褒め合うかで言えば、もちろん褒め合う世の中の方が理想的です。
しかし褒めるという行為自体が完全かというと、「承認欲求の錯覚を当然のものとしてしまう」という要素を含んでいるため、完全ではありません。
もちろん、承認欲求を満たすことで短期的に気持ちを落ち着かせ、その上で錯覚について知らしてくというのならばそれで良いでしょう。
ただ、己の都合で相手の承認欲求を満たして策略するということはいずれにしても相手を騙しているにしかすぎないのです。もちろん相手を傷つけるよりはいいですが、諸手を挙げて賞賛できるというわけでもないのです。
尊厳や自尊心というキーワード
では、そうした承認欲求の領域に対してどう向き合っていけばよいのでしょうか?
たまに「承認欲求を克服したい」と言う人もいますが、普通世の中でそんなことを相談しても、「じゃあ頑張れよ」くらいの回答くらいしかきません。その解決策として何かを頑張ることくらいしか提案されないのです。
本質的には「承認欲求は無明がもたらす錯覚である」と気づくしかないのですが、そうしたことは自然発生的に起こる衝動を野放しにせず、己の心を冷静に観察していくしかありません。
ただ、尊厳や自尊心というキーワードをもって世の中を見渡すと、不可解な他人の行動の動機がすぐに見えてくるはずです。
酒を飲むとすぐに説教をするおじさんはもちろん、スティーブ・ジョブズの言葉を引用しながら、「最年少上場!」と叫んでいるベンチャー社長などの心の奥もすぐに見えてきます。
自分自身が承認欲求などに囚われていないで、ひとまず自分の中起こるそうしたものを観察しながら、他の人の不可解な行動の動機を承認欲求や尊厳や自尊心という目線で観察し紐解いていきましょう。
そうするとおそらく余裕ができるはずです。
「何それ承認欲求?」などと言って相手を侮蔑しようとしているその行動自体が承認欲求を発端としているという落語的な構造が見えてくるはずです。
そういうことが見えてくれば、ふと欲や怒りに任せて行動をする手前で「もしかするとこれは承認欲求を発端としているのかもしれない。そうであるのならば、少し考え直そう。他者からの承認など受けても仕方ないのだから、少し冷静になってもう一度考えよう」と思えるようになってくるでしょう。
そうなると、承認欲求を発端とする「他者の自尊心を奪うような行動」に意味がないことに気づき、「その場の最適な行動は何か」ということの判断の精度が上がっていきます。
そんな感じで慣れてくると、相手にバカにされたとしても「相手は単に尊厳や自尊心の回復のために感情に苛まれているのだ」と冷静に観ることができます。
そうなると慈悲の心を持って適切な対処ができるようになるでしょう。
よく「承認欲求のない人ほど承認される」ということが言われたりしますが、理屈は簡単です。
自分が承認欲求に苛まれることがないのだから、人から尊厳を奪ったり、自尊心を奪ったりせずいられます。だから基本的に敵視されることはありません。
相手が承認欲求に苛まれているからといって、その解決策として「尊厳や自尊心を高めるために褒めてあげよう」というようなことをしなくても、たとえ相手にとって厳しいことを言うような形になったとしても、その奥にあるのが慈悲であるのならば、その人は恨まれることはありません。
逆に「自尊心が弱っているのだから褒めてマインドコントロールをしてやろう」と思っている人は、いずれその策略に気づかれた時、時に恨まれることになるかもしれません。
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根本的に尊厳も自尊心も承認や承認欲求も全て錯覚です。
朧気な幻影を追うように、蜃気楼が見せるオアシスに魅せられ彷徨うようにそれらを追い求めても、心の安穏はありません。
自分に起こる欲や怒りを当然のものとして扱うのではなく、それらの錯覚を根本から焼き滅ぼしてしまいましょう。
他人と接した時、この心はどういったプロセスでそれを体感しているかを観察してみましょう。
そしてそんな他人に承認されたところで、「何がどう変わるのか」を観察してみましょう。
それによって心が落ち着いたとしても、その落ち着きのプロセスまでを具に観察してみましょう。
そして、「ある条件を満たすことで落ち着きが生まれる」という構造を観察した上で、「その条件がなければ根本から問題が起こらないのではないか?」ということに思いを馳せてみましょう。
全てが自作自演だったと気づいた時、錯覚による呪縛からの解放が起こり、安穏で満たされることになるでしょう。
自尊心や尊厳、そして承認欲求を当然のものとした上でそれらを欲することは、裏を返せば劣等感を持ち、それを克服したいということと同じです。しかし、劣等感の克服や劣等コンプレックスの解消を目指すというアプローチ自体が錯覚ゆえの誤謬です。
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