およそ実用性からかけ離れているものほど、情報的な付加価値が生まれ、プレゼントなどには適している場合が多いように思います。
たとえば現金と花束を「実用性」で考えれば、わかりやすいように思います。
コレクターと言われる人が集めているのは、「これだけあれば便利だろう」と言う理由ではないはずです。
ともすれば、「意味」や「理由」を求めてしまいがちですが、そんなことに裏付けされても、突き詰めれば雰囲気です。
実利的な理由付けの逆効果
「どうして弊社への入社を志望したのですか?」
こんな質問の時ですら、実利的な話をすると煙たがられます。
「給与が高いので」「大企業なので、みんなに自慢できるので」
そんな理由を述べたらたいてい入社試験は落とされます。
本音にそういう部分が隠れていても、全面的に押し出すようなことではありません。
「君の家が金持ちだから!」
と愛の告白をする人はいないでしょう。
「じゃあ、お金が無くなったら捨てるのね」がついてまわります。
「君がとてもキレイだから!」
と言っても
「じゃあ、オバサンになったらもっとキレイな人に乗り換えるのね」がついてまわります。
あまり「○○だから」という理由付けは、やめておいたほうがいいかもしれませんね。
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旅に目的など定めずに、ただ旅をすればいいだけ。
そこを変に難しくしているような風潮がたまにあります。
それは、いざという時に、「相手に責任を取らせたい」ということの表れではないでしょうか。
無意味な行動こそ至高
そう考えると、無意味な行動や無意味なものについて、「そんな無意味なもの」とレッテルを貼って馬鹿にするのはやめておいたほうがいいかもしれません。
たいていのことに意味付けを行うことはできますが、「意味がある」を根拠に何かと相対化して、相手を「子供扱いする」のは変な話です。
たとえば「これはビジネスで使える資格なので勉強している意味があるが、それはただの趣味なので意味がない」などは言うことはもちろん、思うこともやめておいたほうがいいですね。
僕はスポーツ推薦という制度がどうかと思っています。
たとえば、あるゲームで日本一の記録を保持していたとします。
「秋名 下り 世界最速レコード保持者」などです。
でもそれは評価されません。
スポーツだって遊びのはずです。
でも、何故か評価されます。
「勉学以外のことも評価すべきだ」というのもわかりますが、それならばこんな人たちも評価してみてはいかがでしょうか。
「わかりにくいものは受け入れない」
これが、お役人の大原則です。
じゃあぜんぶやめといたら?
改バージョン⇒無意味こそすべて 改
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