他人たちに対する愛着と配慮の衝動(「同情的好意」)が現在の二倍の強さになるとすれば、地上では全く耐えきれないであろう。日々刻々、各人が自分自身に対する愛着と配慮からどんなに数々の愚行を犯すか、またそのとき彼がいかに耐えがたいものとみられるかを、まあちょっと考慮するがよい。 曙光 143 前半
人に止められてでもやってしまうこと、それが良い方向に動けば偉業が成し遂げられ、悪い方向に向かえば我が身を滅ぼすことになりかねません。
悪い方向に向かった場合は、まさに「この衝動が荒れ狂いさえすれば、禍いなるかな!」です。
やる気が続くか続かないかは、よほどの達人が脇につくかマインドコントロールを行うかというレベルでないと、基本的に外の人間がどうこうしてなんとかなるものではなく、頭の上で無理に自分をコントロールしようと思ってもやる気は湧いてくるものではありません。
やる気と目標
概ね「やる気」は目標達成までの幅の分だけ生じます。
一応腹具合を含めて体調も関係していますが、体調を整えたからといってそれだけでやる気がみなぎるわけでもありません。やる気には「やる気の対象」が必要であり、それはいわば目的や目標と呼ばれるものだったりします。
傍から見て、「もっとその業界で続けていたなら」という感じで、ふとその業界のトップの人が辞めてしまうこともありますが、おそらくそういう人たちは、やる気までのエネルギーを使い果たし、かつ目標は達成し、もうやることがなく、同時に「何の属性もついていない自分に戻りたい」というようなことを思っているのだと思います。
で、そうした目標に関してですが、情動とセットでないとうまい具合には働かず、よって、外部の人間が提案したような目標は概して効き目がありません。
気持ちよさを求めて
アルコール依存やギャンブル依存に関しても、そうしたものに触れている時が快適であり、その時の「気持ちよさ」を求めているのだから、あれこれ思考上の損得を説いたところで全く効き目がないこともよくよくわかるはずです。
その極地は薬物依存などにあたるでしょう。
快楽的瞑想への依存
そう考えると、祈りや勤行の類も一種の「気持ちよさ」への依存の面があることを否めません。特にインドにハマった人がよくやっているような瞑想の類はその最たるものです。
以前、法然のことを念仏ジャンキーと表現したのはこのためです。選挙の時によく見るダルマさんの元となっている達磨大師(ボーディダルマ)は瞑想にハマりすぎて足が腐ったという伝承があるほどです。
一説によると某カルトの瞑想は、瞑想中の脳内ドーパミン量が違法薬物の20倍以上だと聞いたことがあります。それくらいに激しくドーパミンが出るのなら、それに依存することも頷ける話です。
そこまでの快楽的なものでなくても、「心地よさ」が一つの基準となります。そしてその心地よさから外れているものは、それがどのようなものであれ、スルーするのです。
ゲームに夢中の子供に対して勉強の大切さを説いても響かないのが良い例でしょう。
この衝動が荒れ狂いさえすれば、禍いなるかな! 曙光 143
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