音楽を文学に変えたり絵画に変えたり、ということが稀に芸術の分野では起こります。
音楽をベースに音楽を作るとなると、よほどのサンプル数と洗練がない限り、似たり寄ったりな感じになってしまいますが、異なる次元で表現してみると、普通はあまりわかりません。
で、モロに音楽を文章で表現するのは難しいというような人がいますが、おそらく音楽と文学と両方に精通している人が少ないだけで、フタを開けてみればそんなこともないような気がします。
にわか趣味では大雑把にしか捉えられない
五感と意識のうち、だいたいどれかに特化するのが普通で、さらに基本的には視覚がよく発達するそうです。
そういうわけで、聴覚に関しては幼い頃から目に頼らず耳に頼るという一種の訓練をしておかないと、聴覚の感覚に鈍感になりうるということをよく音楽家の人に聞きます。
少しお金を持った人が、趣味はクラシックだみたいな感じでカッコをつけていることがありますが、本当に聴き込めているのかは疑問です。
ある程度集中力を高めて訓練すれば矯正はできると思いますが、にわか趣味では大雑把にしか捉えられないのではないか、と思っています。
クラシック音楽を理解できるとか楽しめるということをもってカッコをつけようとしているだけに思えることがよくあります。
本当に聴き込もうと思うとある程度聴覚が発達していないと聴けないと感じるからです。
それは味覚でも同じで、少し金持ちになった程度でワインに走ったとしても、深いところでは楽しめていないのではないかと思います。
受け取り手の感受性
「身体の限界と楽しみの限界」などで触れていますが、同じようなことをやったとしても、受け取り手の感受性によって楽しめるレベルは千差万別、表面上やってみたからといって同じように感じれているのかは別問題です。
たとえ鑑賞する側であったとしても、実際にその分野で何かをしてきたような形でないと、深いところまでは感受性が高まっていないような気がします。
高い領域で圧巻される
そして「すごいとされているからすごい」というわけでも何でもなく、本当のすごさがわかる瞬間というのは、受け取り手としてはある程度感じることができたとしても、それを自分が作り出すことはなかなか難しいと感じたときです。
模倣することすらできない、コピーすることすらできないと思えるほどのものを感じた時に、その相手に対する敬意が出てきます。
それは素人目にもすごいとされる人に対しての場合でも、素人が見るよりも遥かに高い領域で圧巻されるという感じです。
絵画で言うと、20歳位の時からシャガールが結構好きなのですが、最近改めて生シャガールを観て、当時は気づかなかったような彼の凄さに気づきました。
クリーム色がベースの絵に、三原色でドバドバっと数ヶ所と色が置かれているのですが、何故かその場所が浮いていない、そんなにはっきりした色を使っているなら、その場所が際立ちそうなものなのに、完全に全体に溶け込んでいるのです。
画家の友達に聞くと、「そういうとこなのさ」と言っていました。
そんなことを思い出すと、どうしても赤黄色の金木犀を思い出してしまいました。
あの曲も面白いです。
「期待外れな程」と「目を閉じるたびに」は、通常同じコード進行を使うのですが、頭のコードのキーだけ半音上がっているという感じで、夕暮れの赤信号と、完全に日が暮れた後の赤信号のような差が出ています。
同じ光を放ちながら、背景が異なりコントラストが違うという感じですね。
そういうことをされると、うっとりしてしまいます。
模倣できない 曙光 69
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