「愛は平等にする。」

愛は、それが一身を捧げる相手から、よそよそしさの感情をすべてなくそうとする。したがって愛は偽装と擬態とで満ち満ちている。愛は絶えず欺き、実際には存在しない平等のお芝居をする。 曙光 532 前半

平等ということなので、絶対的なモノの見方と相対的なモノの見方についてでも書いていきます。

平等が語られる時は、だいたい社会目線です。経済学の永遠のテーマとされる、ピザを均等割りするのか、体格に合わせて分けるのかといった分配なんかも社会的です。

ほとんどの場合、「平等」という言葉は、弱者側からの説得材料として使われる程度で、少しズレている感が否めません。

中学生の時には「人権宣言」的なものを策定させられ、事あるごとに「みんなで決めた人権宣言やろ!」と教師に悪用されていました(発案自体も学校側、内容も心理的誘導があるのにね)。

さてそれでは絶対的なモノの見方と相対的なモノの見方についてでも書いていきます。

不足を感じる時

吾唯足知なんてな言葉もありますが、これは「現状に満足して我慢しろ」という意味ではありません。

不足を感じて欲が出る時は苦しい、求めてるのに得られない苦しみは求不得苦と言われ四苦八苦のひとつです。

で、こうした不足を感じている時は、世界をどう捉えているでしょうか?

この時、視点としては世界を相対的に見ています。

比較対象があり、その対象との比較によって不足を感じ、欲が生じ苦しんでいるという感じです。

物事を欲するという意図自体は、それが絶対的である限り特に問題になりません。

ただ、求不得苦としての苦しみは、喉が渇いたというような身体的な者は別として、そうした純粋な意図によるものではなく、アイツ目線の相対的な考えによって生じます。

比較対象がなければ、僻みも優越感もありません。

「オレより働きが悪いやつのほうが、給料を多くもらっている」

とかそうした苦しみはないのです。

無理にレクサスに乗って自尊心を回復させなくても良いのです。

そして、これは社会としての横並びの比較だけでなく、個人としての時系列的な比較も同じです。

例えば、財布と小銭入れを持っていて、トータルで5万500円持っていた、と。

で5万円が入っていた財布を落として

「あーーーーーーーー」

となっている時は、所持金5万500円からマイナス5万円で500円になってしまったことを憂いています。

しかしこれは5万円500円と500円の相対的な視点です。

今を切り取れば、「500円がある」というだけになります。

これが絶対的な視点です。

「この印において汝は勝つであろう。」

金銭的制限による不平等

世の中には無駄な不平等、差別もありますが、金銭的制限による不平等もしっかりと差別的ではあります。

わかりやすいのが

「授業料の高い予備校に行かないと良い大学に入れない」

というものや

「家にある程度のお金がないとクラシック奏者にはなれない」

というもの

そしてもっともわかりやすいのが、

「家が貧乏だとディスニーランドに行けない」

というようなものです。

特に自分で稼ぐことができない中学生くらいまでの間は、学校では平等を教えられるのに、こうした差に直面し、心を蝕んでしまいます。

ただ、僕から言わせると、別にそんなところには幸せはありません。

広告などによる社会的な流れがそうしているだけで、そんなものは所詮まやかしにしか過ぎません。

「友達に自慢しちゃおう」

そんな言葉が、次の苦しみを生みます。

ということで「○○だから」というネガティブな気持ちは全て錯覚です。

それは世界を相対的に見ているから、たったそれだけです。

確かに世の中は、ほとんどすべてが相対的な尺度で判断されています。

「売り上げランキング1位」とか「何とかセレクション最高金賞」とかですね。

僕から言わせると

「それがどうした」

という一言です。

社会の中で相対的に測られる材料は、プラス面ばかりが注目されますが、安倍晴明なんかが言うように「名は呪」であり、何かと何かを区別する名や肩書などのラベリングこそ、世界を制限して見ることになる原因であり、行動もそれらに縛られていきます。

相対的な尺度から見れば、平等というものは成り立ちません。

それどころか、何をどう満たそうとしても、満たされることはないのです。

不平家

「愛は平等にする。」 曙光 532


資本主義、特に金融資本主義の中では、資産や所得においても最初から差が生まれおり、また、資産面以外にも様々な要因がバラバラです。つまり、スタートは不揃いであり、環境は各々異なります。そんな中、一律に語ることはできないような点について環境の差異を考慮できない思慮の浅さというものが見受けられることもよくあります。

ある種の侮蔑

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ