乞食

乞食は禁止すべきである。乞食にやるのは癪にさわるし、やらないのも癪にさわるから。 曙光 185

まあこの物乞いに関するニーチェのアフォリズムは、結構有名だったりしますね。この「乞食は禁止すべきである。乞食にやるのは癪にさわるし、やらないのも癪にさわるから」は、事あるごとにニーチェの代表的な格言として出てきます。若干の日本語訳違いがあったとしても、結構目に触れた方も多いのではないでしょうか?

といっても、禁止しようにもできないですからね。こうした問題は、社会福祉として国家がなんとかしていくしかありません。

実際に貧困国では、離婚後の女性なんかは仕事自体もなく…

と、これはそんなことを言っているのではありません。

まあ一口に「乞食」といっても、心理的な乞食は、どこの社会でもたくさんいます。

いわゆる憐れみ乞いですね。

まさにニーチェが言うように、世話をするのも嫌ですし、世話をしないのもなんだか後味が悪いという感じです。

憐れみ乞いをする人の特徴

根本的に憐れみ乞いの人には特徴があります。

それは自力で何とかしようとは思っていないということです。

ただ人のエネルギーを奪うこと、それしかしていません。

例えば、何か相談事があったとしても、その相談の内容というか相談の仕方によって、本当に自力で何とかしようとしている上での「ご意見頂戴」なのか、重く伸し掛かってきているのかという違いはすぐにわかります。

前者の場合は、自分の思考の痕跡なんかを話してくれます。で、後者は、何も考えていません。

「うえーん。おとーさーん」

「うえーん。おかーさーん」

というだけです。

自分の感情をどう落ち着けるか、そうしたことにしか関心がありません。

で、人からの憐れみを条件として気力を保っている状態です。

そういう「条件が必要だ」と思っている根本的な思考に原因があるにも関わらずです。

僕は友達を必要だと思ったことはありません。

友達はいますが、必要だと思ったことはなく、今後それがゼロになっても何の問題もありません。

必要だと思うということは、「必ず要る」ということで、無ければ成り立たないということです。

幸せのためには、友達が必要だ、心の安定には友達が必要だ、ということであれば、友だちがいなくなると、不幸になり、心が安定しないということです。

ということで、僕としては必要な条件ではありません。

友達が必要だと思っている部分が多ければ多いほど、その人は憐れみ乞いの特性を持っている可能性があります。

そうではない、独立した安穏が続くことのほうが良いに決まっています。

同情の禁止

そして、安易に憐れみ乞いに同調してしまうこと、同情してしまうということは、色んな意味でよくありません(ニーチェお得意の分野ですね)。

自分も気分が暗くなりますし、相手には「憐れみ乞い」という条件パターンを強化してしまうことになるからです。

先ほどの「悲壮な人々と素朴な人々」で触れていた友人から、「お父さんの突然の失踪」等々、様々な出来事の話を聞いた時、僕は爆笑してしまいました。

「かわいそうやなぁ」といって同情など一度もしていません。

「リアルホームレス中学生やがな」

とその体験談について、ただただ爆笑してしまいました。

すると彼は、「今まで、話に同情する人はいても、爆笑する人はいなかった。これは爆笑するような話なのだということに気づけた」

ということで、どんどん明るくなっていきました。

でも、爆笑して「ムっ」とする人もいるでしょう。

「こんなにつらい話なのに何を笑っているんだ」と。

そういう人は憐れみ乞いです。

ということで、彼は憐れみ乞いをしていたのではなく、ただ単なる思い出話をしていただけだからこそ、明るくなれたのです。

同情と共感

乞食 曙光 185

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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