「うつという成功法則から脱却しよう」ということで、うつにまつわる免罪符や成功法則としての機能、「プレッシャーから逃れられる」という一種の機能について、自らはどのように扱うべきかという点について触れていきます。
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どうも「うつ」テーマによくアクセスがあるようです。
そこで菩提心というほどのものではないのですが、こうしたうつ病に関するテーマの記事を少しずつ増やしていこうかなぁなんて思っています。
その理由は次のとおりです。
最近では少しマシになりましたが、アフィリエイターやひどいときには大企業までが、こうしたうつの人の心理状況をいいことにコンテンツでアクセスを稼ぎ、広告収入を得ようとしてます。ほとんどは何かのサプリメントを売るため、もしくは、バナー広告をクリックさせるためです。
僕は会社も経営していますし、経済社会の真っ只中にいますが、嘘の情報や不確実な情報などなど何でもかんでも垂れ流しにしてWebコンテンツ化し、お金を儲けるということは悪だと思っています。
そういう亡者たちを笑い飛ばしていきましょう。
ということで、僕は永久に広告などをつけることなく、勝手に記事をどんどん配信していきます。なぜなら、別に自分に関係がない人であっても、一秒でも一ミリでも苦しいのは少ないほうがいいじゃないですか。そして僕は、カスのようなメディアを見る時間も遊ぶ時間も必要はありません。ということで、僕にとっては頭をまとめるための遊びの延長であり、実際に頭もスッキリするのだから双方にとってメリットだらけです。
ということで、「うつ」に対する意識レベルでの解消法をまたまたちょっとだけ書いていきましょう。
「うつ」という免罪符「うつ」という成功法則
たまーに「うつ」という免罪符「うつ」という成功法則になっていないか?ということをつっこむ人がいます。
半分くらいは正解です。
なぜなら過酷な「社会での役割」に対して「病気」というものは免罪符になるからです。
特に最近ではうつ病も「気の問題」という認識から「病気である」という認識に変わってきているので、免罪符としての性質が強くなりました。
人によっては「自分が鬱だ」ということが過酷な状況から逃れることのできる成功法則として成立してしまっている人もいるでしょう。
ここで、うつの人は怒ります。
「病気なんだから」
と。
いや、それはわかりますよ。経験済みですからね。
社会の中の一員としての自分
そこでまず考えてみたいのが、免罪符や成功法則としての機能です。
世界にたった一人しかいないとすれば、自分が鬱であることは100%マイナス要因です。
ただしんどい、ただただブルー。何もいいことはありません。
しかし、社会の中の一員、社会の中で役割を与えられた自分という目線で見た場合は、そうした「うつ状態」であるという「他者からの認定」が免罪符となり、社会の中での活動では成功法則として成り立ってしまいます。
そうした「他者からの認定」があるからこそ、「気を遣ってもらえる」とか、「期限をあれこれ言われない」とか、「これくらい稼いでこい」と言われなくなるとか、公的扶助を受けられるなどなど、様々なメリットがあります。
いわば公認モラトリアムです。
もし医者から「うつ病です」と言われて、少しホッとしたという経験があるのなら、確実に公認モラトリアムを喜んでいるフシがあります。
ということで、まだ怒っているでしょう。
「実際に苦しいし、私は病気なんだから」
「医者も認めているんだから」
と。
社会からの期待は免罪符なしに無視しても大丈夫
はっきり言ってしまうと、そんな成功法則を採用しているのも、元のうつの原因となったストレスも、根本的な原因があります。
それは「他人によって形成された自我」を実体だと思っていることです。
哲学的に見ると、自分のオリジナルの情報など一つもありません。だからこそ自我そのものが、いわば全て外界の情報から形成されています。
確か他の記事で書いたので割愛しますが、簡単に言うと、この身体も両親から、考え方も考えの材料となる情報も全て自分がゼロから生み出したものではなく、経験の記憶から形成されています。ただ、そうした情報の絡み合い方が、ある意味自分のオリジナルだというくらいで、ベースとなるものは全てオリジナルではありません。
そこで、考えてみていただきたいのですが、どのような常識も取り決めも、本来は絶対的に決まりきっているものではありません。
「結婚して子供がいるから働いてお金を稼がなくてはならない」というのは、本当でしょうか?
それは全て他人の都合であり、絶対的な基準ではありません。
「プレッシャーから逃れられる」という成功法則
で、そうしたものを信念として持っていながら、一方でプレッシャーが嫌だという情動も持っています。
その葛藤を見事にクリアしてくれるのが「うつ病」という免罪符であり、その免罪符のお陰でプレッシャーから逃れることができたという成功法則に味をしめているという状況も考えられます。
そこで、こうした成功法則と、「プレッシャーからの解放」という情動がセットになっている可能性があります。
「営業ノルマの残りはどうやって確保するんだ!」
という月末のプレッシャーに対して
「この方は『うつ病』という診断をされたため、休養が必要です。あまり強くストレスを与えないように配慮してください」
という安堵の一手が差し伸べられた時、それまでにあった過度のストレスがすっと無くなるはずです。
こうして、一種の社会的な「ステータス」として、「心地よい情動」との関連付けが行われている可能性があります。
根本的なストレス要因に働きかけろ!
ただ、こうしてみてきた中には、大前提として、強いストレスの原因が存在しています。
それは「他人の都合」と「他人によって決められた常識という信念」と「現状の判断」というセットです。
で、哲学的に見て、僕がいつも言うような「そんなものは存在しない」というような事を頭で理解できても、無意識レベルでは受け入れていないはずです。
情動に騙されるな
歴代の哲学者や心理学者なんかは、ほとんど満場一致で「人が行動を決定する時、ほとんど100%無意識的に感情で決めている」と言います。
広告の世界などでは、当たり前のように、感情に訴えかけるという事をしています。
実際に、感情をほとんど排除して純粋に理性で判断できる人はほとんどいません。
以前喫茶店に行った時に、何かのデモに参加した人同士の会話を聞いていたのですが、「寒い日だったのだが、炊き出しをくれて感動した」というような会話をしていました。
それと、デモの意見とは関係がないはずですが、これは人をデモに駆り立てる要因として感情が含まれているわかりやすい例かもしれません。
何かの意見や主義を採用しようとする時、感情を完全に排除して考える事、それが情動による翻弄を避けるコツです。
その時に「人を説得する」というような要素を削ぎ落とすことです。
「嫁を納得させる必要があるなぁ」
なんてなことは考えてはいけません。
そうして、自分の中にある信念を見つけて
「本当だろうか?」
と問いかけてみましょう。
その時の感情を感じるのは結構ですが、ただ感情が流れていくということだけ体感して、思考には持ち込まないようにしましょう。
その成功は偽物
この辺で、何となく察しがつくかとは思いますが、うつという成功法則を採用している人であっても、その成功は偽物だということを何となくご理解いただけたでしょうか?
他人によって形成された常識という信念の中で、自分がストレスを回避できるというだけで、根本的な信念を捨ててしまえば、「自分は何をやっていたんだろう?」と思うはずです。
「うつ病」というステータスを免罪符として、現在の状況の中での最も快適な生活の切り札として採用しているというなんともバカげた話です。
おそらく「現在の延長線上での楽な生き方」を求めていることでしょう。
それは、社会的に「成功している方」に入っている自分とか、「ひとまず家にこもりながら、人に頭を下げなくていい自分」とか、そういった現在の延長線上です。
自我の根底にあるのは生存本能です。
生存本能が判断した「別にリスクなんて冒さず今のままでいい」という命令があります。
そして今現在味わっている「この成功法則上でのリスクの少ない安心した状況」にどっぷり浸かっているという可能性も大いに有り得る話です。
何重にも騙されています。
仮に「働くとストレスを感じるから働きたくない」と思っていたとしましょう。
うつであっても、うつじゃなくても働かなくていいとすれば、どちらを選びますか?
そんな感じで考えてみても面白いかもしれません。
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