新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半
あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。
普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因してフィルターがかかった状態で「現実だと思っている」というのが、本当のところです。
何かを考え始める時、何かの文献を頼りにしろという方法論自体が、少しおかしいといつも思います。
それはひとつのきっかけのパターンとしてはいいですが、何だかんだで文献に依存する形にもなりかねないからです。
「参考文献を示しなさい。それは本当にあなたが考えたことですか?」
という脅しによる洗脳が大学などでよく行われています。
本当に自分が考えたことでも、同じことを先人が先に書物に書いていたなら、その先人のものだとでも言いたげです。その裏には権威の維持のような要素も含まれています。
こういう仕組みが、自ら考える頭を作らない最大の原因です。
さて、「これが現実だ」と思っていることは、アイツによる解釈です。
僕の名前は…に始まり、今の状況の説明する場合に、様々な属性と状態を考え始めます。
この瞬間の現象の状態
しかし、それは現実ではありません。
現実は、ただこの瞬間の現象の状態にしか過ぎません。
もう少し突っ込むと、言葉の表現が難しいのですが、すべての現象は同時に「存在しているとも存在していないとも言えない状態」で、既にあります(あると表現していますが、あるともないとも言えない状態です)。
そんな「この瞬間の現象の状態」を「動画ファイルとプレイヤーと観客」で例えてみましょう。
動画ファイルとプレイヤーと観客
動画ファイルで例えると、動画ファイルの中のすべてのシーンは既にあります。
しかしファイルそのものは「存在」しているわけではありません。
一応情報としてありますが、物理的存在であるのはハードディスクなどであり、動画ファイルは、そのハードディスクの状態とも言えます。
それをプレイヤーにかけて再生した時に時間という解釈が生まれるというイメージです。
だから、動画ファイルとしては時間というものがありません。
そのプレイヤーこそがアイツです。
だからアイツが不在になると、時間という解釈がなくなります。
そして、心はその観客です。
ただ、プレイヤーから流れる動画を時間解釈とともに認識しているという感じです。
それだけならばいいのですが、アイツはプレイヤーであるのと同時に、思考と感情を発動させます。
そして、ただ流れる映像のストーリーを変える力はないのに、様々な思考や感情で心を乱します。
「お、ただ流れているだけか」
せめてそんな感想がやってきますように。
祖先に対する批判 曙光 176
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