現在、道徳的な事柄の感覚はきわめて縦横無尽であるので、ある道徳が、この人間に対してはその効用によって示され、あの人間に対してはほかならぬ効用によって反駁される。 曙光 230
効用というものは極めて主観的なものです。主観的でしかありえないものなのに、その「ご意見」を寄せ集めて「客観」とし、様々な説得に使われていきます。まずは効用そのものについて触れていきましょう。
効用とは
広義には、「使いみち・用途」や「効き目・効能」などを意味しますが、狭義の効用(utility)とは、ミクロ経済学の消費理論に出てくるものです。基本的には消費者が財やサービスを消費することによって得る主観的な満足の度合いのことを指します。
すなわち、それぞれの消費者が自己の消費する財(お金を支払う)から受ける(対価として)満足の度合いを数量的に表現したもので、同一の財から得られる効用(数量的な表現はさておき)は消費者ごとにもちろん異なります。つまり絶対的に主観的なものです。
対象からの満足度
基本的には、消費する財と交換した対象、対象からの満足度、ということになります。しかし、財は一般的にはお金になりますが、厳密に言うとお金だけではありません。手間・労力も一度お金に変換して、それをまた変換し直すのですから、手間労力からダイレクトに変換する場合でも、こう言った構図に当てはめることもできます。
当然です。同じものを使って、全く同じような反応をする人がいるわけがありませんから、当然に満足度も違います。しかし、世間では、この各々の「効用」を寄せ集めて絶対的かのような「客観的な意見」として利用してきます。
それがひとまずは試してみなければ、というような参考値としてのデータとして、医薬品を使うようなときならばひとまずなので特に問題ではありません。すなわち、医薬品ならば、相性というものがあるということを誰しもが薄々理解しているのであまり問題にはなりません。
道徳と効用
効用は主観的なので、効用によって肯定され、時に効用によって否定されます。やはり危ないのは、ある種のイデオロギーとその効用です。
主観的故に、効用があるならば「正しい」とする人もいて、その結果を見て「間違いだ」と判断する人もいます。
宗教や自己啓発に洗脳され気味の人は、ご本人は少し幸せそうです。しかしながら、その考え方に執着があるゆえに、苦しみが一つ多いのかもしれません。
主観的な満足であり他人への説得材料としては足りない
効用というものは、主観的な満足であって、他人への説得材料にしては少し物足りないものがあります。
僕はイカが食べれませんが、イカが美味しいという人がいます。カニ味噌もダメですが、カニ味噌と聞くだけでテンションが上る人がいます。
例えばイカを食べるのに1000円払ったとして、イカが好きな人はそれなりの満足感を得れるかもしれませんが、僕はおそらく1000円を払っても、おそらくがっかりするでしょう。食べないと思います。
では、イカが好きな人の「美味い」という意見をもって、イカは美味しいものとするのか、イカがうまくないという僕の意見を持って、イカは美味しくないとするのか、どちらでしょうか。
これらの意見には絶対性を帯びた客観としての何の回答への指針もありません。しかし、無いからといって投票制にするのは、民主主義というイデオロギーからの偏見です。つまり議論が成り立ち得ないナンセンスなお話ということになりましょう。
「効用的。」 曙光 230
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