生きているということは、明晰夢のようなおぼろげなものです。何度か書きましたが、僕は夢という言葉が苦手です。
イニシャルDの最終話で「プロジェクトDのイニシャル、Dreamに込めた俺の夢だから」と、高橋涼介が言った時には彼の評価が2段階位落ちました。
「高橋涼介が一番だ」、ということで頭文字DのゲームでもFC(RX-7)を使っていましたが、少しがっかりしました。D8になってからはもうゲームはやめたので、関係のないことです。
衝撃的な出来事
人生においては少なからず衝撃的な出来事というものがやってきます。
衝撃的な出来事ほどなかなか頭を離れてくれません。
頭から離れないだけで、もうそこにはないのですが、なかなかしぶとく付きまとってきます。そんなときはやはり「それがどうした」であり、「そうか好きにしろ」です。
第三者を介する時
さらにややこしいのは第三者を介する時です。かつての彼女のお母さんのように、彼女は関係ないのに、どうしてか彼女との間柄に影響しそうになります。
「娘がこんな負け組と」という態度を取った彼女のお母さんについては、「それがどうした」であり、別に好きにならなくても問題ありません。仲良くする必要もありません。
こちらの言動や状況が、その人をイライラさせるとしても、その人がイライラに対応する観念を勝手に持っているだけで、そんなことにまで構いきれないというのが事実ですから、特に気にする必要はないのですが、彼女がそのことを気にした場合にややこしくなります。
明晰夢のようなもの
ただ、こんな構図すら夢と同じこと、数回寝て起きれば、無かったようになります。同じような観念がくるくる回っているので、また同じようなことが起こる可能性はありますが、もうその空気感はありません。
自分にできる唯一のことは、何か状況を変更させようと無理をすることでもなく、解釈を変えることでも行動することでもありません。その空気感をその場に置いていくことです。
「なんとかしよう」と思うのは、まだその場に置いてきていません。現象から発生した影響をまだ許容しています。忘れようとするということもまた違います。
ただただ、そんなものは一過性の幻、つまりは夢と同じことだと、わかりきっていればそれだけで十分です。
すべてが明晰夢のようなものなのだから、そのことに気づいたら一瞬先には夢から覚めればいいだけのこと。
夢からさめて 曙光 100
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