世の中にはわからないことがたくさんあります。
でも、本当にわかる必要があるのか疑問に思ってしまいます。
考えることは楽しいことですが、それは思考実験だけでいいのではないでしょうか。
哲学することは、おそらく頭を使う分野では一番楽しいことだと思っています。
いまでは、こだわりをなくしましたが、以前はかなり頭が固まっていたと思います。
でも、それもプロセスなのかもしれません。
いろいろなことに迷いもがくことも、もしかしたら演出かもしれません。
どうでもいいだろう いやどうでもよくない やっぱりどうでもよかった
昔、神経が張り詰めていた頃は、「そんなことどうでもいいだろう」と、哲学的なことが気にならない人のことがよくわかりませんでした。
おそらくいまでもよくわかっていません。
たとえば、僕は戸を開けっぱなしで外出することはしない性格ですが、平気で数センチ開けたまま外出できる人もいます。
そういう人がいいとか悪いとかではなくて、理解できません。
おそらく理解する必要もないでしょう。
これと同じようなことで、考える対象としては「時間」や「認識」、「善悪と正邪と真偽」「死と生」「意識」などなど単語にしただけでめまいのしそうな事柄がたくさんあります。
僕は、そんなことばっかり考えていました。
読書するより、そっちの時間の方がはるかに多かったと思います。
わかったからといってどうでもいいことで、特に何も変わらないのですが、どうしても考え出したら止まらない分野です。
でも、結論としてはどうでもいいことです。
数学上の点も線も物理空間上は存在し得ないはずですが、別にそれはどうでもいいことです。
本当に何も変わらなかったか?
ただ、ひとつ言えることは、何も変わらないということはありません。
哲学は、「しなければならないこと」でもなければ、「したから強くなる、幸せになる」などというものでもありません。
「学」という文字が誤解を生みそうですが、誰かが言ったことを「覚える」とか「理解する」ということではありません。
ただただ、必要な事柄ではありませんが、プロセスとしては通ってしまう道なのもしれません。
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何に向かうプロセスか、それは、「どうでもいい」と思える感覚です。
もっというと、誤解が生じるかもしれませんが、いわゆる「涅槃」かもしれません。
別に涅槃の境地がどういうものか定義してそれに合致しているか、とかを検証する気はありません。
そんなことは「どうでもいい」のです。
世界一の坊主が出てきて
「それ、違うよ」
といったところで
「そうですか。あーそんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ」
などと言える感じです。その人を論破する必要などありません。
これはあくまで体感であって、そんなことは「どうでもいい」のですから。
形而上学的パッケージプラン
目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。
「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。
方便という言葉があります。
本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。
本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。
その方便を本気で信じている人たちがいます。
信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。
少しわかりにくい表現ですが、100%信じていれば、当たり前すぎて、議論の対象にもならないはずです。
方便は方便の領域をでません。
人から話を聞いても、それを自分で考える、感じることをしないから、方便の領域をでることができないのだと思います。
しかもその書物自体も、時代の途中で改変されている可能性も否定できません。
ただ、考えずにはいられないけど、考えるのがめんどくさい人がひとまず書物をまるごと覚えて、ご満悦になっているのではないでしょうか。
しかしそれは、新たな解釈や書物が発見されたりすると、ひっくり返る可能性があります。
よく仏像を拝んでいる人がいますが、当のブッダは誰に拝んでいたのでしょうか。
僕は、彼が偶像に対して拝んでいる姿を想像できません。
イエスが十字架にはり付けられたのは、亡くなる直前です。
祈っていたとしても、生きているときは、向いている方向はせいぜい空です。
ニーチェが面白いことを言っています。
「本気のキリスト教徒ってイエス一人だけじゃない?」
オーラ?
霊とかオーラとかが見えるという人がいますが、別に見えていても不思議はありません。
実在するとかではなくて、その人には本当に見えているのかもしれません。
たまに深い催眠や薬物の使用で、変なものが見えたりとか聞きますが、同じようなことです。
すごい臨場感で見えていても不思議はありません。
それと、何かを関連付けるから変な方向に行くのだと思います。
「で、それがどうしたんですか?」
と聞いてみましょう。
悪魔の正体
そういう形而上学的な事柄で、人を脅す人です。
または本能レベルでの恐怖を用いて、人を脅す人です。
「この壺を買わないと、不幸なことが起こる」
「背後に悪い霊がついている」
「煩悩にまみれていると死後に大変なところに連れて行かれる」
などと脅して、人からお金などを巻き上げる人です。
思考のレベルだけでなく、人間が本能的に恐怖する音や形を用いて精神を弱らせてから、というパターンもあるでしょう。
残念ながら、人の頭の中というものは、方法論によってはすぐに書き換えられてしまいます。また、過剰に感情が高ぶったり、考えが止まりやすくなるような周波数なんかもあります。ある意味それくらい信頼できない存在です。
前にも書きましたが「先祖の供養」などと言って、脅してくるのも変わりありません。
恐怖ではなく、恥ずかしさなんかをついてくる場合もあります。
悪魔が存在するとかしないとかではなくて、表現としてですが悪魔的です。
そういうことに意識が集中してしまうと、本当に緊張して、嫌なことが起こるのでしょう。
方便の領域で
ひとまず人を安心させるのはいいような気もします。
それをいいことに、お金を巻き上げて祇園に飲みに行くのはどうかと思うだけです。
人から集金するのに「こんなの全部たとえのジョークですよ」では都合が悪いのでしょう。
なるべく神格化して、ヒエラルキーを形成して、の方が集金がしやすいのだと思います。
まあ、「どうでもいい」ことですが。
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