戦略空間の外側

情報を大量に入れ込むと、カオスが生まれます。つまりそれは、ある一定の正しさを帯びた原理同士が矛盾を起こし、解が見えないということが起こるということです。

ただ、本来はそのカオス空間を解決する必要はありません。

一方でカオス空間をそのままにしておくと意志決定ができず不快感だけが起こり苦を得ることもあります(こちらのほうが多いでしょう)。

ただ、そうした時こそ、哲学的な抽象度の高い空間に移動すると良いと思っています。

最近そんな事をよく思い出します。

例えば、十代の頃に人の価値の基準として「生産性」という概念が入ってきた時、一定の正しさがあるため、それをどう取り合うかが不明瞭で混乱したことがありました。

例えば産油国等々で、国家全体が石油で潤っている中、全く生産性のない「祈っているだけの人」が生きながらえているのはなぜ成り立っているのかという点に矛盾を感じたりもするわけです。

生産可能な状態であり、「生産性が低い=低価値」ということにされるのであれば、生産可能な状態ではなくなると、という構造から脱することができる、ということも思ったりするわけです。

これはたとえが悪いですが、例えば五体満足な引きこもりであるより、いっそ障害者になったほうが楽というような「解」が肯定されます。

しかしその原理のようなものを支えているのは、主にアメリカ式のビジネス的な視点、他民族国家で隣の人を信用することができないため、金銭や権利(株式や不動産を含む)といった一種の明文化された部分で権力、権限を保っておいて生存確率を上げるというような背景があるところの表面的な理論だけを持ち込んでいるからだという点をしっかりと見ないと、先の「解」にたどり着きます。

たいていは、生産の方に回らせるため、これは周りの人のコスト的な問題ですが、生産能力があるにも関わらず、生産せずに消費だけする存在がいると、周りにいる自分としては損をするから、少しでも生産しなさいという圧力がかかります。これもある意味で正当です。

家計という枠組みのお金の流れを直撃する家族や税収を上げたい国家はもちろん、稼いでもらって消費してもらうことを良しとする各企業、すべてが圧力をかけてきます。

「あなたがバイトででも手伝ってくれれば私は少しは楽になるのに」

ということを社会全体が疲れのイライラの転嫁として圧力をかけてくるわけです。

一方、この世には相続で受け継いだけの不動産所得などで、不労所得を得ている人もいます。

その人も何もしていないはずですが、周りは圧力かけません。税収や消費等でお金を払ってくれるからです。

こうした構造は、はっきり言えば「差別」であると考えることができます。

しかし、資本主義の上では「仕方ない」とします。

ただ、少し抽象化すると仕方なくはありません。

定言命法的に考えれば、消費するだけでなく、他者のために生産(お金を介さなくても良い)をするということが社会の中のよりベターになるはずだからです。

そこで考えてみたいのが、「収益最大化」やそのための「戦略」というものです。

元々は価値の交換の道具でしかない貨幣の方が、実際の生命よりも重視されたり、生命の価値を測る基準となる事自体が、視点の歪みであり、それを最大化するために「勝つ」「負ける」という視点で物事を考えること自体が歪んでいます。

功利的に考えても功利のための貨幣であるはずが、勝ちと負けを作って、「勝つために」と人と人と戦わせる事自体が少し歪んでいます。体育会系です。

しかしながらある程度そうした貨幣の動きは、人の時間と労力に関係しています。そこで勝たなければ「やらなければならないこと」が増える、つまり、疲れてイライラするということを想像させます。

それが、マイナスからゼロに戻す動機を作っています。

しかしながら、それでは個人レベルでも社会レベルでも幸福最大化とは乖離します。利潤の最大化は幸福の最大化とはイコールではありません。

そんなことを思った理由のひとつが、運動会のお父さん参加率です。

体調不良ということなら仕方ないですが、仕事を理由に来ないというのはどんな感性をしているのだろう、ということです。

個人的には、特に「家庭を優先せよ」とまでは思っていませんが、子の運動会に参加すること以上に大切な仕事というものはどのようなものなのかということを疑問に思っています。

仕事などいつでもできます。その運動会はその日しかありません。

かなり前から日程などはわかっているので、その日くらい空けることはできないものかと思ったりします。

これは特に運動会というものに限らずですが、なぜそんなに仕事が何にも増して優先事項になっているのかがわかりません。

営業時間、営業日、業務内容なども、本来はある程度の合理性のために仮設定されているようなものであって、確定しているものではないはずです。

あまりに不安定なら、お客の側が困るということになるため、ある程度安定させているわけですが、一年のうち数回くらいイレギュラーがあることを受け入れないのはなぜか、ということです。

これが、収益最大化のために幸福最大化を蔑ろにしている感があります。収益、利潤最大化を意図しているのは資本家です。

そうなると、資本家の人生のために、幸福の機会を犠牲にしているのは、どうかなと思います。

おそらくお客の側も、「運動会?そんなもんで一日遅らせるの?ふざけるな!」という人もいないわけではないと思いますが、99%の人たちは「まあ、いいんじゃないでしょうか」と容認するのではないでしょうか?

「運動会?そんなもんで一日遅らせるの?ふざけるな!」という人に限って、いかなくてもいい「夜の店」にいったりしているわけです。

たいてい人を感化するようなくらいの少し障害が入っているような「強気な爬虫類のような人」が、資本主義的空間で暴走していて相手はその変性意識に同調して屈服するというような感じになっています。

わかりやすいのは、悪徳布団販売か何かをしていた頃の松永太死刑囚でしょうか?

都合が悪くなると「おい、電気、電気」と、電撃を与えるようなことをしたり等々、常識はずれです。

僕ならやり返しますが、たいていの人はそれに屈してしまいます。

そこまでいかなくても、ビジネス王者的に外に出てきている人はその気配があります。

で、「幸せそうか?」という視点で見ると、全くそうは思いません。

「戦略」というような感じで考えると「解」がパワハラなどになるわけです。直接的な恫喝でなくとも、金融系大企業、特に外資の場合は、人の生命のことを考えないほどの長時間労働だったりします。あれも論理空間上の恫喝です。やっていることは、収益最大化のための暴力です。

そういうことに応用するために、心理学やら行動経済学やらが使われているというのは何とも嫌ですね。

15歳の時に初めてバイトした時のことです。

それまで「とにかく大人の人がうまい具合にすすめてくれるだろう」「勝手に導いてくれるだろう」と思っていましたが、

「ああ、この人たちは自分たちが楽をすることしか考えていない。相手の人生など微塵も考慮していない」

というようなことがすぐにわかりました。

端的には、その時間、必要な人員が埋まればそれでいい、というだけだということです。

それをキープするために、考慮しているふりをすることはあっても、ほとんどの人は相手の人生んことなど考えていないということです。

ただ100人に1人くらいは、多少本質的に考えてくれていたような気もします。

言い方は悪いですが、小さい企業、かつ、「不動産を転がしている人が儲けのためだけでやっている副業的企業」等の場合は、「相手のことなど考えない」という傾向が強いですね。

資本主義のルールの上で、最適解としては、人の行動の間にちょっと噛んで、少額の手数料をもらう、という空間を肥大化させることです。

空間を大きくして、実際の付加価値を作りながら、文句を言われない程度に人の行動からほんの少し中抜する、という構造です。自分たちは空間を大きくすることだけに注力し、実際の業務は行いません。

現代で言えばフリマアプリなどがわかりやすいかもしれません。最近では人が実際に動かないので下火ですが、実際は百貨店なども同じです。

「場所を作って、他人に活動してもらい、場所代や手数料をもらう」

ということです。

ただ、個人的には面白くないんです。

それは収益、利潤を最大化するが、幸福を最大化するものではない、となれば、何をどう選ぶべきかに混乱が生まれます。

ただ、混乱や混沌はそのままでいいと思っています。

「そのままでいい」と思うには、抽象度の高い哲学空間に移動するだけで十分です。

「で、なんですか?」

です。

あとは成り行きでも大丈夫です。

具体的な原理に対して、それをどう解決するか?ということに囚われているという構造があると、永久に何かの原理に囚われます。

Aを満たすためには…

Aを満たすことができないので代替策Bは?

Bを選択するとCという矛盾が生まれる…

このBとCの矛盾を解決するには…

というようなことが延々と起こります。

「知ってるよ。でも…知らんがな!」

というようなところに行きましょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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