操作感を取り戻すこと

人がなぜパニックになるか、なぜ継続的に「苦」を感じるかというところを簡単に示すと、結局は、「変化を求めているが操作できない」というものに換言することができます。

この変化というものは究極的には「安らぎ」です。

ちなみにここでいう「苦」は、日常的な苦しみのすべてを含みますが、一切行苦の「苦」つまり「ドゥッカ」を示します。

これは、「思い通りにならない」というようなものを示しますからね。

ここで少し面白い視点からこの構造を見ていきましょう。

「思い通りにならない」

という状態をなんとかしようと思う、つまり「変化を望む」というようなことが、気持ちの裏側には必ずあります。

で、その変化に関して「こうすればよいのではないか?」という方法をすでに思いついています。

それは慣れ親しんだ方法論であったり、「何かしら解決に向かうだろう」という期待があるような新規情報だったり様々です。

しかし、問題を問題と定義していること自体が、固定観念の影響だったとしたら、その解決策は、成功しても短期的にしか効果をもたらさない上に、失敗すれば効果はないということになります。どちらにしても根本解決をもたらさない場合がほとんどです。

つまり、何となく現状は嫌だと思っている、そこで、現状を変えたいと思った時に、現状の環境を操作しようとします。

それはそれでいいですが、現状の環境を「操作できない」という実感が来た時に、より一層苦しむことになるわけです。

そこで限界が来ると逃げるか、相手や対象に破壊衝動が起こるか、というようなことが起こります。

逃げることができない場合は、「操作できない対象」に害意が向きますし、害を与えることが別の要因(倫理観やその他の経済的依存面など)で抑制されている場合は、物を破壊したり自傷行為に走ることもあります。

こうした時に、「操作できない」と感じるのは、ある方法論に縛られているからという理由が大半です。

「論破して正当性が伝われば相手は従わざるを得ないだろう」

というようなことだけを方法論として持っていると、正当性がある程度証明されてもうまくいかない局面に出くわします。

端的にはモテを意図してもモテませんから。

例えば恋敵がいるとしますよね。

その恋敵より自分を選ぶ方がいかに正しいかということを論理的証明をしていったとしても、その証明行為自体が不快感を与え、選ばれない側になることがあるというようなことです。

仮に意志決定に関数があるとします。

(あくまで「仮」です。これは常に変動するので固定的ではありません)

その記号列は大まかに10個あるとしましょう。

その構造の「前半部分」の「5つ」だけしか見えていないから、論破すれば動かざるを得ないだろう、というようなことを「思う」わけです。

で、思い通りにならない、と。

実際、例えば経済社会や組織内では、業務運行を楽にするために、命令系統が働きやすくなるように、「後半の部分」の「5つ」は社会的な固定観念(主に教育によるもの)によって自動でロックされがちになっています。

つまり、社会の風潮、慣習、法的ルール、倫理観、経済的合理性等によって、ある程度固定化されているということです。なので、そこを気にしなくても、前半の5の操作だけで、実際の相手の意志決定を操作できているような格好になっているだけです。

これは、「法治国家で資本主義で何かの組織であり、構成員の同調圧力というバックグラウンドがある中なら、通じることがある」というような感じです。

しかし、例えば恋愛空間や家庭空間はそうしたものの影響を受ける部分もありますが、受けない部分もたくさんあります。

ただ、後半部分の「5つの要素(繰り返しますが数は仮です)」は確定的かと言われると、本来は確定的ではありません。

なので「ちょっと変わった会社」や「変人ながら才能のある人」もいるわけですし「犯罪組織」や「圧力団体」もあるわけです。

少し話がそれましたが、それで「操作できない」という印象をどうするかというと、操作できないという感覚は、時と場合によってなぜそうなっているのかがバラバラであり、画一的に示されるものはありません。さらに個々人によってバラバラです。

「変化を望んでいるが、意識的操作はすべて失敗に終わっている」

というのが、葛藤です。

いくつかその状態から脱する道はあります。

「人それぞれだ」といってしまえばそれまでですが、

ポイントは「操作感」と「俯瞰」です。

ひとつは「操作することができる」という感覚です。

ただ、本来は「それを操作する必要があるのだろうか?」という一段高い視点にいくことが大切です。

例えば奥さんのことが嫌いだとします。

その場合、その奥さんとこれからも生活していくということに辟易していますが、かといって子どもとの関係もあるので簡単に切り捨てるということは難しいと考えています。

(この場合、奥さんと夫さんを逆に考えても問題はありません)

何かしらの不快感を抱えています。

それを解決すべく論理を構築したり、下手に出たり、強気に出たり、いろいろなことを試してみました。

しかし不快感は残っています。

この不快感の正体は何なのだろう?

あなたは哲学者のようになります。

何という報われない人生なのだろう。

なんと馬鹿らしいのだろう?

太宰治氏のように、また「考える人」のようになります。

「ハイコスト、ローリターン」

人生自体に疑いをかけます。

どのような選択肢があるでしょうか?

選択肢は知っていること以外にも無数にあります。

無数にあるためぼやてけていますが、徐々に明らかになっていきます。

今、肩や首がこっています。

それをなんとかしようと伸ばします。

伸ばして少しだけ楽になることもありますが、また元に戻ります。

どこかで治療をしてもらってある程度楽になりますが、一週間もするとまた元に戻ります。

痛みやつまりをなんとかしたいと思います。

ストレッチすることで筋肉の柔軟性が戻るということを頭に思い描いています。

しかし、もっとガチガチにするには

どうすればよいのか今は知りません。

人間はどの程度まで肩や首をガチガチにできるのか?

ということを意図したことはありません。

面白いのであえてもっとガチガチにするために何をしましょう?

変な姿勢を取り続ける?

電気風呂に入ったり低周波治療器を最強モードで当てたときのように意志の力だけで限界まで曲げてみる?力んでみる?

思うより曲がるかもしれません。

もう限界だという程度まで力み続けます。

ほらミリミリ言い出しました。

でもそれが限界?

そんなことはありません。

人間の限界はその程度ではありません。

そんなことをすると損傷が残る?

残ればいいじゃないか。

私は、どこまでもガチガチにすることもできるし、損傷を残すことができるのだから。

限界に達したあなたは、一冊のノートと一本のボールペンを用意します。近くのお店に買いに行くかもしれません。

枚数は30枚でもいいですし50枚でも構いませんが、望む通りのものを選びましょう。

やることは2つです。

自由時間は、奥さんに対する罵詈雑言を

「これは人間が書いたものなのか?」

と疑いがかかるほどの文才で書き続けます。書き続けなければなりません。

そして実際に奥さん本人を見た時は、徹底的に観察します。

可能な限り目を見て、体のすべてを観察します。

どのような言葉を発した時に、どの部分に緊張が走るか、すべてお見通しです。

話す必要はありません。観察するだけです。

何の感情も持ち出さず、白髪の本数を数えても良いでしょう。

感情を持ち出すのは、罵詈雑言タイムの時だけです。

今は観察を楽しみます。

なぜ、揺れるのだろう?

なぜ声のトーンが変化するのだろう?

今、奥さんはただの観察対象です。

人間の醜さ、弱さ、傲り、自己中心的思考…

すべてのサンプルです。

実験対象でしかありません。

一冊のノートを書き終えることができるでしょうか?

書き終えるまで、自分の意見を奥さんに話してはいけません。

罵詈雑言のレベルが低いのでは?

仮に誰かがそれを読むと「鼻血を出して失神するほどの悪口」でないといけません。

着眼点が浅いですね。

もっと深く、辛辣に、徹底的に書かなければなりません。

「悪いことを書くと言霊で自分に跳ね返ってくる」

という言葉こそ悪魔のささやきだとしたら?

「目標を書くことで自己実現を。ということは、これが実現する?」

という思考こそ悪魔の思考だとしたら?

これ以上、悪口が書けない?

本当に?

どんどん遡って、どんな細かなことでも構いません。

正当性?

落としどころ?

倫理観?

自己同一性との一貫性?

そのようなものは必要ありません。

何をためらっているのですか?

指が痛む?

指の痛みの限界にチャレンジしませんか?

馬鹿らしい?

馬鹿らしいということは、馬鹿らしいということを理由にした逃げなのではないですか?

思う存分書いてください。

誰も邪魔する人はいません。

「そうだ、バーボンのボトルにウーロン茶を入れて、酒を飲んでいるフリをしよう」

あなたはミスター・ビーンです。チャップリンでも構いませんし、ドリフターズでも良いでしょう。

「さて、どのような反応をするのか?」の観察が楽しみになってきました?

少し離れたところで飲みます。

ボトルから注ぐ音だけが相手には聞こえます。

「これはかなりの量なのではないか?」

とわかるほどの音です。

一応水割りにしている風にしましょうか。

それでも無視しながら、それでも相手を観察します。

鼻歌でもどうですか?

二杯目に移りましょう。

無意識的動作で相手はあなたを観察をしに来ました。

すれ違います。

なぜか酒の匂いがしません。

「飲んでいるはずなのに酒の匂いがしない場合の認知的不協和の観察」

ああ、楽しいですね。

どのようになるかはいずれ明らかになっていくでしょう。

Category:miscellaneous notes 雑記

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