捨て身と自己愛の矛盾とその先にあるものについて触れていこうと思います。
「思い切り」というものは、その最高地点が玉砕のような捨て身でありつつ、なぜそれを選択しているのかという点で因を観察すると深い部分で自己愛があります。
これは同レベルで照らし合わせると矛盾になりそうなところです。
カルマ、悪業云々を根拠に苦行をするというのは、まさにこうした捨て身と自己愛の矛盾がふんだんに含まれています。
苦行によってどうなりたいのかと言えば自己愛に基いて幸せになりたいということになります。その一方で、「そのためには何でもやってやるぞ」という選択において捨て身の覚悟を持っています。しかし捨て身の覚悟で挑んでいることが「苦しいこと」です。
こういうループが起こっています。
一方、捨て身レベルで思考から逃れないと思考の餌食になります。何でもかんでも基本的には不安的視点から考えるので、頭を使って自分を苦しめることになってしまいます。
その領域から離れるには、自分を否定するような捨て身の感覚が必要になります。
しかし、なぜ自分を否定するような捨て身の感覚を選択しているのかと言えば、自己愛によって「苦」から逃れたいからです。
実際は知りませんが、シッダールタやサーリプッタも同じようなことを考えていたのではないかと思っています。
思考や行動ではどうにもならない
ちなみにうつ状態というものは、本質的には自己愛の欠如です。
徹底的な自己愛によって意識の向きが変わると、うつというものは瞬間的に吹き飛びます。
ただ、「自己愛」というものは様々な解釈がなされ、何となく本質的に合っているような、自己中心的人間の説く詭弁のような、そんな感じがしてしまいます。
自己愛において他人を条件にしてしまうと、「自己中心的な感じ」になってしまいます。
また、歪んだ自我空間の中では、自分をいじめるようなことしか考えません。
なので、思考によっても行動によっても、自己愛はなかなか満たされることはありません。
たった今、全力で楽になる
さて、捨て身と自己愛の矛盾をどのように矛盾なきものにして意識を向けるのかという点ですが、これは単純です。
「たった今、全力で楽になる」
ということです。
義務感や罪悪感や圧力からの解放です。
そして自分への態度を改めます。
義務感や罪悪感や圧力は「空」です。
存在しないという表現をする人も多いですが、そうなると少しわかりにくくなります。
「ある」と仮定すれば、影響が起こります。
「ない」と仮定すれば、影響は与えられません。
自動反応として「ある」を自動で選択しているのは意識の向きです。
「不足に意識を向けない」という方向で考えると、「不足があるが目を逸らそう」と、不足に意識が向いています。
「たった今、全力で楽になる」
それは、机で作業をしていて疲れてきた時に、「ふぅ」と背もたれにもたれかかる感覚に似ています。
ドラマや映画でよくあるような「自宅に帰ってきて、飛び込むように寝床に大の字で寝そべる」ような感覚です。
実際に全力でそうしてみると、数秒くらいかもしれませんが、そうした瞬間は楽になるはずです。
その瞬間が、義務感や罪悪感や圧力に耐えてあれもこれもやり終わった後に欲している感覚です。
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たった今、体験することができます。
矛盾や葛藤の先に行く
自我目線の自己愛というものは方法論を選ぼうとします。
「AがBになったら自分は満足だ」
という基本構造があります。
その奥には
「Cという条件を満たすDを得るためにはAがBになる必要がある」
という複雑な構造があります。
ただ、複雑にしようと思えばどこまでも複雑にしていけるというだけで自我目線の方法論は常にこうしたものになっています。
「苦行」を選択する際にもそのようになっています。
「すべての苦しみから解放されるためには伝統的に言われている解脱が必要である。解脱というものにたどり着くためには、何かがんでも苦行を達成しなければならない。苦行を達成した暁には解脱が起こり、すべての苦しみから解放されるだろう」
一応論理的に辻褄は合っていますが「伝統的に言われている解脱」は確定的なものではありません。それを選択する部分には知識という情報や別の思考による論理の支えや感情が絡んでいます。
他人への態度と自分への態度
自分への態度、自分への評価が意識の向きを決めています。
しかしながらその評価のあり方は、ある空間の定義に合わせたものです。
特に社会における評価など、自分ではなく自分の役割に対して向けられているものであって、全くアテになりません。
役職やそれに関係している権限に対して敬意が払われているだけで、その役割や決定権がなくなれば、ただの世間のうちの一人として最低限の配慮がされるだけになります。
「こんにちは」と言えば「こんにちは」と返してくれるくらいのことはあるでしょうが、役職や権限があった時とは異なる態度に変化します。何かしらの影響力があったり、長年の思い出があったりするのであれば、その影響力や思い出の分だけ配慮は加わりますが、基本的には挨拶を返してくれる程度にまで下がります。
問題は社会における他の人のことではありません。
それと同じようなことを自分自身に向けてしてはならないということです。
劣等感や罪悪感は、自分が相手の権限に向けてだけ敬意を払い、その人自身の生命としての存在に対しては敬意を払わないということの裏返しです。
他者への評価がそのような形になっていると、同じ基準で自分を裁くようになります。
そして無価値であるという評価を下してしまうわけです。
そのような評価はすべて「ある空間のある前提条件の中における評価」です。
ゴルフ仲間を探している人にとっては、ゴルフをやらない僕は無価値です。
でもその人に「マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイターを一緒にやりませんか?」と誘った場合、おそらく断ってくるはずです。
ただ、断ってきたからと言って「ある空間のある前提条件の中における評価」においては無価値ですが、その人そのものが無価値であるわけではありません。
すなわち、「マーヴル・スーパーヒーローズ VS. ストリートファイターを一緒にやってくれる人」を探す目的に合ってるかどうかとしては無価値ですが、別にその人のことを無価値だとは思いません。
これはゴルフや格ゲーの話になりましたが、真面目空間の中において同じような構造のことを深刻に考えてしまうことがあります。
「営業ができないなんて…」みたいなことを酒に酔って管を巻く人がいます。「某経済新聞を読まないやつをビジネスマンとして認めない」系の人ですね。
そういうのをまともに相手にしてはいけません。
爆笑しましょう。
そうすると、自分自身が同じような思考を持った時にそのちょっと重い空間を爆笑することができます。