スポーツ選手と資本主義について軽くだけ触れておきましょう。
個人的には我が子にスポーツを本格的にやらせる気はありません。世の中では進学において有利になる的な面でスポーツを推奨しているフシがありますが、仮に何かのスポーツをやってそこそこの才能があったとしても「それを活かして」という発想にならないように、全く手を貸す気はありません。
資本主義においては「その時に利用価値があったから」という程度の評価しか無く、その人の人生のことなど考えてはいません。
むしろ相性がものすごく悪いというのが本当のところになるでしょう。
学校に行けたとして、その先の保証はありませんし、学校に行くということは消費者側です。つまりお金を払っている側です。
社会に出るということは、お金をもらう側です。
資本主義自体を全面的に肯定しているわけではありませんが、社会のベースは資本主義であり、「お金を払う側ともらう側」という要素を見ることは非常に大切です。
仮に資本主義でなくても、「お金を払う側ともらう側」というような構造は良く観察しておく必要があります。
根底が遊びであるため結局お金にならない
奨学金による借金や自力で資金を用意した場合もあると思うので一概には言えませんが、スポーツなど一言で言えば「親の金で遊んでいただけ」です。
いくら「厳しい練習に耐えた」云々を言おうが、そこに社会への還元要素はありません。走るくらいなら、荷物を運べば良いのです。その方が社会性があります。筋トレをするなら道路工事をしてください。
日本代表クラスのスポーツ選手だとかなんとか言ったところで、僕には関係がありません。
「で、なんですか?」
で終わりです。
実際はそんなもんです。
何かになるのなら、投資事業が好きな人や広告代理店などが何かしら一緒に持ち上げて何かをやるはずです。
でもそうしたことが起こらないのは、結局お金にならないということを示しています。
空間に縛られすぎている
という僕は、非体育系ながらなぜかいくつかのプロチームやプロスポーツ選手と関わったことがあります。
ただ、引退後等々のスポーツ選手にありがちですが、今までいた空間に縛られすぎているのではないかと思ったりもします。
全く関係のない業界で社会に機能を提供するということが頭に浮かばないと言うか何と言うか…
「今までの経験を活かして」とか「多少なりのネームバリューを活用して」ということを考えるので、収益化することが難しいということがよくあります。
やはり色々と見る中で、収益の点に関していつまでも「スポンサー」的なものに縛られている気がします。
つまり、親のお金で遊んでいた人たちが、今度は世の中の他の人のお金で自己実現しようと考えているというような感じです。
はっきり言ってしまえばそのような構造になっています。
スポンサー側の気持ち
しかしながら、スポンサー側の気持ちというものを全く考えていないフシがちらほら垣間見れます。
そしてスポンサーはスポンサーで、その企業の中の人達が日々の業務で得た収益をそちらに回しているわけです。
それはよく考えれば、そのスポンサー企業の内側で、「パートで働いている人に何かしらで還元されても良いもの」の一部を提供していただいているということになります。
なんとなくその自覚がない人が多い気がします。
なぜか?
元々が親を筆頭に人のお金で遊んでいただけの人たちが多いからです。
元々が遊びなので収益化が難しいという要素があります。
かなりの成績を残しても、同一業界でさほどの高給取りになるということは叶いません。
元々が遊びなので収益化が難しい
先日、スイミングスクールのようなところに行ったのですが、そこのインストラクターの方でも、ある意味同一業界内では一種の勝ち組であるはずです。自分のいたスポーツ競技の内側で仕事を得れているのですから、ある意味夢が叶っているわけです。
ただ、お話した方は今季で退職されるそうです。
理由はブラック体質だから。
なぜブラック体質か、それは収益構造が弱いからです。
経営効率が良く、収益率が高いのであれば、ブラック労働環境にはなりません。
引退後の人生のことなど考えていないので、一種の悪魔空間とも考えることができます。人生の前半の部分でお金を使わせて、後半にそれを還元できない仕組みなのですからタチが悪いと思っています。
後に収益を上げるにしてもマルチネットワークのように下の世代から吸い上げる構造になっています(これはスポーツに限らず芸術の分野でも同様です。学校的なもので吸い上げます)。
そう考えると日本国内では少子化が進んでいます。
僕の生まれた1983年の出生数は150万人くらいです。
昨年の2024年の出生数は68万6千人程度です。その前の2023年でも72万7千人程度です。これはコロナ環境の影響もありますが僕と同世代と比較して人口は半分以下です。
ちなみにその間くらいの2003年で112万3千人くらいです。
言い方は悪いですが「幼児期から高校生くらいまでのスクールビジネスや学校ビジネスで下の世代から吸い上げる構造」も厳しくなることは目に見えています。
その業界がある程度の市場を作り出すということについて、長い歴史を持っているわけではありません。
長い歴史がない分、その空間に行くことの効果や、引退後のあり方があまり見えていなかったのでしょうが、近年徐々に露見してきたのではないかと思います。
一言でいうと「遊びなので元が取れない」ということです。
引退後に右往左往するくらいなら体育教師を目指している方が楽です。
再度スポンサーの気持ちについて
再度スポンサーの気持ちについて触れていきます。
先日、某元プロスポーツ選手の企画にお邪魔しました。
参加費は無料ということでそれはそれでいいのですが、運営費はスポンサーからということでした(うちがスポンサーというわけではありません)。
スポンサーから資金を得ているというのはいいですが、スポンサーの気持ちについては全く考えていない感じがしました。
その後の反省会のようなものをこっそり聞いていると、内容についての反省点等々を話されていました。
やっている内容が良いとか悪いとか、そういうのもいいですが、「お金を出してくれた人たちのことをどう思っているんだろう?」というのが正直な感想でした。
まあ動員数に対してある程度プロモーションなどをしたところでしれているのかもしれません。そういう意味でも収益化は難しいという感じがしました。
しかしながらですね、実際に行ったスポンサーへの還元は、挨拶の時にスポンサー企業の名前を読み上げる程度、スポンサーの扱いが雑すぎるのではないかということを思ったりもしました。
で、聞くところによるとスポンサーの大半は身内なんです。直接的な身内ではないようですが、昔同じチームだった人の親御さんの会社とかそういう感じです。
「この期に及んで誰かさんの親の金で遊ぶのかい?」
元々は、その会社の人たちが何かを売ったりして稼いできてくれたお金です。
そういうの、どう思ってるんだろう?
というのが正直な感想です。
別にやっている内容はいい内容だと思いますよ。
ただ、せめてスポーツ用品店とかそういうのがスポンサーにつかないというのはどうなんだろう、と思ったりもしました。
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直近ではそのようなこともありましたが、以前から人を通じてそうした元プロスポーツ選手系の方の引退後について相談を受けたりもします。
団体を立ち上げてイベント企画をしてというようなことをしたりもしていましたが(僕が提案したわけではありません)、たいてい成り立たず数年後に法人解散等々になっています。
最初はスポンサーとして協賛してくれた会社も、二回目、三回目では辞退するケースが多いようです。
おそらく費用対効果が見込めないからでしょう。企業として協賛してもイベントのお知らせチラシに名前を載せる程度しかしないのですから、それならば別の広告を使った方が良いというのが本音なのだと思います。
漠然と「スポンサーとして協賛してください」ということは通用しないということです。
一回目は善意や好意で受けてくれることもあるでしょうが、企業側としては、資本主義の空間にいる営利企業である以上、利潤の最大化を目的とするということはどこかしらで思っていますし、そうでないと会社としてはおかしなことになります。
「いいことをしているはずなのに、なぜ共感してくれないんだ!」
となるところなのでしょうが、それがお金を払う側ともらう側の思考の違いです。
せめて、何かしらの広報手段を考えて、「御社のPRを含んだ案内を5万部配布しました」とか、「イベント当日の様子の動画を30本配信しました。間に社名と簡単なPRを挿入しています。総再生数は1000万回となっています」とかそういう報告ができないものかと思います。
そう考えると何かの紙媒体の広告枠や動画広告等々と比較して効果+公共性、公益性で、スポンサー継続を検討することができます。
という思考すら、「人のお役に立ってお金をもらう側」にしかできないんです。