6月の半ばくらいから僕は本格的に毎日機嫌の良い毎日を過ごしています。
しかしながら、暑さのせいもあるのか周りの機嫌が良くないときがあります。
「知らん」といえばそれまでですが、機嫌が悪い人をよくよく観察してみると、単に意識が散らかっているだけではないかと思ったりもします。
最近特に実感しているのが、傲りでも何でも無く8割以上の人たちにおいて「びっくりするほど頭が良くない」ということです。厳密には頭が回っていないという感じです。別の側面から言うと抽象度が低い感じです。
頭が回ることが良いかと言うと、それはそれで良いのですが世間とのギャップに辟易することがあるため、一概に良いとも言えません。
思い返すと20歳前後くらいまでは、「周りの大人に任せてついていけば大丈夫だろう」という感覚がありましたが、日に日に「あれれ?」と思うことが増えていきました。
端的にはバイト先等々で「何言ってんのこの人?」ということが増えていったということですね。
6月の頭くらいからなぜ機嫌が良くなってきたかというと、「やはりおかしいのは自分ではなかった」ということを日に日に実感してきているからです。
その実際をあえて話すと「銀行の担当者の方と会って話すたびに調子が良くなっていった」という感じです。
なぜなら話が通じるからです。
担当者、支店長、いろいろな方と話をしましたが、役職が上に行けば行くほど話が通じるんです。
「やはりそれまでに接していた空間がおかしかった」
ということを感じていきました。
では思考のレベルと言うか抽象度と言うかそのあたりが高ければ高いほど良いのかということになりますが、個人的にはそれで良いものの、実際の社会生活においてはレベルを下げなければ「話が通じない」ということが起こります。
そして僕はこの「レベルを下げざるを得ない」という状況が多すぎて、調子を崩していたのだということがよくわかりました。
さて、本題です。情報を触ることと散らかりをまとめることについて触れていきます。
「情報を触る」というと、何かの文を読み解くというふうに捉えられそうなものですが、一応それとは異なります。
情報を目の前の空間から取り出し、触覚的に触るという感じです。
そこで先に情報の中心を捉えます。
といっても意味不明の感じがすると思います。
普通は、個別具体的な情報を並べて絞っていくと思いますが順序が逆です。
個別具体的な情報にたくさん触れておくということは良いことです。しかしその後に積み上げたり絞ったりするのではなく、先に体感的な情報に触ってから、具体化は無意識に任せるという流れになります。
たまに映画などで、空中を手でカキカキしたりとかしているようなシーンがあると思います。あれのような感じです。
で、意識の散らかりですが、これと反対のやり方で過ごしていると、頭がパンクするんです。
なぜなら、現代は情報が多いというよりも、選択肢が多すぎて計算が追いつかないという状況になりやすいからです。
例えば昔であれば通話といえば「固定電話」のみでした。
それから携帯電話が登場しましたが、通話料が高いので、状況に応じて携帯で話すか固定電話で話すかという選択に迷うようになりました。
「家族に彼女との会話を聞かれたくないから外で話したいが料金が高い」
というような葛藤の登場です。
それから現代においては、無料で通話が可能であるにしても、何を使うかという選択肢が数多くあります。
ただ通話するだけなのに、選択肢が多すぎるんです。
最適解を見つけようと思うと計算量が増えます。
そうした要素がいたるところにあります。
先日、ランドセルのカタログを見たことがあります。
僕達が小学生の時は、男は黒、女は赤という感じでほぼ決まっていて、メーカーの違いなどはありましたが選択対象はメーカーのみ程度でした。
それが現代では、少子化にも関わらず「どれだけカラーバリエーションがあるのですか?」という程度に各モデルの中でも色の選択が細分化されています。
さらに「この部分だけ色を変えることもできます、部分的にデザインを変更できます」というような感じで、選択対象がさらに多くなっています。
そうした選択のストレスがいたるところにあります。
ちょっと時間を潰そうと思った時、昔は、「昔読んだ雑誌をもう一回見る」とかいいところ「コンビニで立ち読みでもするか」という程度でした。
しかし現代においては無数に選択肢があります。
どれが最適解なのか?
それを計算しようと思うと頭がパンクします。
実際にいちいち逐次的に考えているわけではありません。それを無意識領域でやっているのですが、計算量が多く頭が追いつきません。
周りの人の頭が悪くなり、かつ、常に機嫌が悪いのは、頭がパンクしているということです。
そこで散らかりをまとめるということが重要になってきます。
ひとつは抽象度の高い状態にある人への相談です。
話を聞いて欲しい、相談に乗って欲しいというようなことは昔からよくあります。
そうしたことは現代でもかなり求められていることです。
なので「話を聞いてくれない」ということが起こると、女性(に限りませんが)はすぐに機嫌が悪くなります。
先のランドセルのラインナップで考えた場合、意図的に選択肢を増やし、選択のストレスを与えて「お店の人への相談」が起こればよく売れるという構造があるのかもしれません。
パンク状態にある頭をまとめて「これが売れています。ああ、それはダメですよ高いだけです」というようなことをしてくれますから。
胡散臭い占い師や自称スピリチュアルカウンセラーなどがやっていることも同じようなことです。
これを人に相談すること無く行うにはいくつかの方法がありますが、ひとつはより抽象度の高い情報を触覚的に捉えて触り続けて抽象的な解、意識の向きを抽象的な体感領域で探るという方法です。
何かしらの意志決定が必要な社会活動においてはそうした方法の方が適しているかもしれません。
もうひとつは単純で、ヴィパッサナーです。それだけで全体的にまとまります。