自由行為家と自由思想家

自由行為家と自由思想家という感じで、「自由」が強調されていますが、肩書きに「自由人」というふうに書く人は、あまり好感が持てません。そんなことは他人に主張するようなことではないからです。

自由行為家や自由思想家は、いわゆるそのエリアの宗教前提の発想や風土・文化に縛られずに自由に行為する、自由に思想を展開していくというような感じです。

その言葉の裏には、西洋であれば聖書の記述は絶対だという前提から考える人達がいて、「自分はそういうところから考えを始めたりはしないぞ、もっと自由に考えるぞ」というような感じが潜んでいます。

「自由人である」という主張

さて、肩書として自分は自由人だというようなことを主張する人がいます。「自由人である」ということでモテようとしているフシがあります。

こうした「自由人だ」という主張も、あくまで相対的に見て、「サラリーマンのように社畜にはなってないぞ」というような比較から生まれる思想ですが、寒くなったら服を着なければ寒く感じて苦しい、そしてそのままだと凍えて死んでしまう、ということは体にある程度の自由は奪われているはずです。

結局全てにおいて自由であることは不可能です。

100%オリジナル

たまに「自由表現者」というような事を主張するような自称アーティストがいますが、そうした人の自由も本気の自由とは、少し違うような気がします。

たとえば自分が作った作品が、完全にオリジナルだと思っていたら中学生の時に観た何かの作品と90%以上そっくりだったとしましょう。

自分ではいい出来だと思ったら「盗作」かと思うくらいにそっくりで、それを知ってしまったら、通常の神経では、恥ずかしくてその作品を世に出すことはしません。

しかし、本当に自由だったら「パクリ」と言われようが、「オリジナルだ!」と主張するはずです。他の作品と類似していようが、それを「パクリだ」と言われることすら躊躇しないはずです。

「何にもとらわれないので奇抜」と、自称するのはいいですが、「かぶる事もあるかも知れない、でも、別にそれでもいいんだ」というのが自由というか、本来の「何にもとらわれない」ではないでしょうか。

100%オリジナルでないといけない、というか、そんなものが生み出せると思っているのが、既に自由ではないというようなことになりましょうか。

「日本語を使うな」とすら言えてしまう

極論を言うと、文であれば「日本語を使うな」とすら言えてしまいます。日本語どころか、100%オリジナルなら、他の言語も使ってはいけません。作者不明なだけで、人工的ではない「自然のもの」ではないからです。

色の種類までは言いませんが、アクリル絵具は使ってはいけません。もちろん音の周波数までは言いませんが、他人が作ったシンセサイザーなどもダメです。

つまり、あまり何も考えないで「カッコがつくから」というような理由で、「自由表現者」とか「何にもとらわれない」とかそういうことは安易に言わないほうがいい、というようなことになります。

制限の中での表現

以前にも少し触れましたが、自由な表現としてやたらと「フリースタイル」「なにが飛び出すかわからない」と盛り上がっていただくのも結構ですが、昔音楽の先生から聞いた話です。

「どうしてクラシックは、いつまでも昔の曲ばかりやるのでしょうか?」

というような質問に対しての回答です。

「可能性としては無限にあるように見えても、どうしてもキレイな和音やリズムなんかは、黄金比率というか、バランスよく聞こえる、つまり心地よかったりするような法則性が意図せずに存在してしまっている。それを知った上で、同じ楽譜上で細かくにじみ出る個性で表現しているのさ。残された可能性の中でね」

自称自由行為者

自由であると錯覚してしまうのは、行為の因果がよくわからないからです。「自分は、自由だ」と思いたい、その理由は、性格の悪い店長に説教されたのか、やたらと理不尽な家庭環境で育ったのかはわかりませんが、なぜそこまで「自由人だ」とか、「何にもとらわれない表現者」などと主張したがるのでしょうか。

それは一種の制限への嫌悪かもしれません。そしてそれは自分の中だけで完結すればいいのではないでしょうか。

わざわざ「みんなも自然に帰ろう」などといって「身体表現者、肉体詩人」と称したりして泥の中に飛び込むのは、別にアートでもなければ、自由な行為とも思えません。それは文明社会へのアンチであって、自然でも何でもないですからね。

 自由行為家と自由思想家 曙光 20

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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