「ぼーっとするな」というようなことを言う人がいます。
確かに何か仕事をしているときなどは、別のことに気を向けてもらっていては問題が起こります。
しかし具体的な何かに意識を集中していると、そればっかりに考えが集中してしまいます。
気がかりなことがたくさんあると、それらについても考えてしまいます。
そのような時は、徹底的にぼーっとします。
その極みがサマタ瞑想やヴィパッサナーです。
これはパソコンで言うところの再起動に近いような感じです。
いろいろなものをたくさん開いているとメモリがパンパンになります。その先にあるものはフリーズです。
そのような時は、ひとまず一回再起動しましょう、というのが一番手っ取り早い方法です。
それから一つだけ開いて改めて開始します。
そうするとサクサク動きます。
イメージとしてはそのような感じです。
睡眠もそれと同じような構造になっています。
なかなか眠れないという場合は、再起動をしようと思っても、メモリがパンパンで動きが遅すぎてその命令を出せない状態に近い感じです。
何かの思考対象を思考上で解決して一つのタスクを終了させたいということもわかります。
ただ、考える対象が多すぎてパンクしていることがあります。
なので、ぼーっとすることや眠ることが何よりも最重要課題になっていることがあります。
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最近はなぜかひとつ良いことがあると、一つ面倒なことが起こります。
それは些細なことですが、面倒だから解決しておきたいと思ったりもします。
しかし、まあひとまず「知らん!」という態度を貫いています。
その場で解決できることであれば、その場で解決したりもしています。
しかしながら些細なこと、それはウォシュレットからの微妙な水漏れ程度のことですが、ひとまずは「知らん!」という感じで過ごしたりしています。
最近親友がやってきて、昨年の厄年感について「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉を思い出したかどうかを聞いてきました。
そういうことを安易に言う人もいますが、もし試練云々ということであるとしても「ウォシュレットの微妙な水漏れ」など単なる嫌がらせとしか思えません。
「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉を思い出したかどうかについてですが、そういえば思い出したこともありました。
そして思い出した時の感想としては「もし、仮に意図的に乗り越えられる試練を与えているとすれば、ボコボコに殴る」という感じです。
疲労がピークに達すると何を書くのかと思ったら、このようなことを書くことになりました。