たまに掲示板みたいなところに標語が貼ってあったりします。
標語を集めて意識を高めようというのは義務教育と公務員の発想ですが、実際に選考に関わる審査員はやっぱりギムキョなので、何が問題かということに気づいていないことがよくあります。
たとえばこのような標語ですが、まず「君なんだ」ということで、どうして他力本願なのか、という疑問が残ります。
つまり、「あなたはしないんですね」というようなツッコミが入ることを想定していません。
逆に「僕なんだ」とか「私なんだ」、とか言うのも、他力本願ではないものの、少し傲慢なような気がします。
ただ、この標語を作成されたのは中学一年生の方のようです。
それはどうしても国語力が成熟しきっていないだろうということで、その方が悪いわけではなく、むしろ「そういうツッコミが来るぞ」と、教育者の方は教育のチャンスがやってきているわけですが、そのことに気づくことなく、「いいぞ、その調子だ」とでも思ってしまった教育者や審査員の方です。それは致命的なことです。その人たちは大人であり、しかも教えたりしている側なのですから。
以前、母の日での一件をお伝えしましたが、このようなことに気づけないようだと、あのような教師のようになってしまいます。
偏見のフィルターに気づいていない
母の日での一件の時の教師も、安易に「母の日にお母さんに感謝しましたか?」と、「世の中にはお母さんがいない人がいる」ということが頭になかったわけですが、「いいことを言っている」つもりでも、そういう偏見が露骨に出てしまう場合があります。
ある意味でそういう偏見に気づけるチャンスなので、それを活かせればいいのですが、体育会系の発想だと、ツッコミが来た時に「目下のものが逆らってきている」、「攻撃されている」という思い込みによって、そのチャンスが無効化されます。それはもったいないことです。
以前、亀岡かどこかで次のようなことが書いてあるポスターがありました。
「子供と女性をタバコの害から守ろう」
聡明なこのサイトの常連さんであるみなさんは、僕が提示しなくても、もうこの文章のどこがおかしいのかお気づきでしょう。
そういった偏見に満ち溢れたフィルターはこの世にたくさんあります。
国語の授業
正直、義務教育での国語の授業は、どういう意味で授業になっているのか不思議なことがあります。数学なら「新しい公式が出てきた」とか、物理なら「今、運動エネルギーと位置エネルギーをやっている」というのが非常にわかりやすいですが、国語の授業はよくわかりません。
一応の文法などもやりますが、たいていは誰かの作品を解読していっているだけのようなものが多いでしょう。しかも授業中に、その文章を生徒に朗読させて時間を稼ぐという手抜きが否めません。
それどころか、「母の日」が「お母さんがいない人」にとってどういう気持ちを起こさせるのか、ということもわからないような人が、文によって表現されている細かな感情までわかるとはあまり思えません。母の日での一件の時の教師は国語の教師です。
国語嫌いだった十代
僕は19までほとんど本を読まなかったのですが、それはどうしても国語が嫌いだったからです。国語が嫌いだった理由は、「面白くなさそう」だからです。
名作家の文をだらだら読み上げるだけ、しかも同級生がふざけながら読み上げるのに、そこに感慨深さはありません。本は一人で読むべきです。
たいていの学問は面白いはずなのですが、教師の資質によってかなりおもしろくなったり、おもしろくなくなったりします。
義務教育推奨の作品もいいですが、いっそ国語の授業で題材となっている作品が面白くないと思われるくらいなら、「モテる必勝法則」などを教科書に採用してみてはいかがでしょうか。
そこまで極端でなくても、映画化された本の原作でも採り上げて、ひとまず「読む気持ち」を誘発させないと、国語を勉強する気にはならないのではないでしょうか。
しかし、子供に国語力や論理力をつけられると、義務教育の問題点が浮き彫りになりすぎて管理しにくくなるのでしょうか。
もしそうなった場合でも、それをはるかに上回るほどの力をつければいいじゃないですか!教育者の皆さん!
人類の新しい教育のために 曙光 13
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