他人の都合というものは厄介なものです。
何が厄介かと言うと、時に「自分を尊重する」というものと「相手を尊重する」というものがぶつかるからです。
抽象化して統合された都合を発見できればいいのですが、相手が狂っていたりすると、相手の都合ばかりが迫ってきたりします。
そうした感じで迫られた時に、「相手の都合や状況も理解できるからなぁ」と思って関わるとロクなことが起こらないという場合があります。
手をかけようと思って手をかけること自体が、相手を狂わしてしまうということが起こったりもします。
この時、抵抗が起こっています。
その抵抗は、相手の都合を受け入れるか受け入れないかというようなものではなく「自分を尊重する」というところに対する抵抗です。
手をかけよう、関わろうということ自体が、相手への信頼の不足につながることがあります。
また、自分が関わると「自分が無理に関わった分マイナスが発生し、自分が手をかけたつもりでプラスになったとしても、トータルでゼロに戻るだけ」というようなことが起こったりします。
これは根本的には、他人の都合を無視するというような点についての倫理観的抵抗が、相手に投影され、相手を狂わせて「自分は労力をかけてその狂いを落ち着けているだけ」というような自作自演感があります。
自分が手をかけない方がうまくいく
今に始まったことではありませんが、「自分が手をかけない方がうまくいく」ということがよく起こります。
印象としては「相手に依存心を生じさせ、相手を堕落させてしまう」というようなものです。
相手が自分で乗り越えるような課題を人任せにしてしまうというか、自分の力を信じなくさせてしまうというような感じです。
これは身内によく起こります。また、かつてからバンドや会社でよく起こりました。
関係性がフラットな友だちにおいては起こりません。
「叱らずに理解してくれる」
というようなものが、相手の依存心を作り自立心を奪ってしまうような気がします。
叱らないのも理解するのも、依存を生み出すためではないのですが、相手にすると相手は依存心を発生させます。
特に相手を信頼していないわけではないつもりですが、相手に任せても結局うまくいかず、最終的にはいつも頼られるというような感じになっています。
最近ではこの傾向はマシになってきました。しかし、相手に任せても結局その奥にいる人間が「相手には解決できないレベルの大問題」を発生させたりしてきます。
倫理観的抵抗
根本的には、自分の中にある倫理観的な抵抗が反映されているのではないかと思います。
ある意味無慈悲になりきれないというようなものが原因です。
しかしこれは「慈悲という観念」を利用した悪魔の仕業だと思っています。
すごく軽いもので言えば、休業日に仕事の件で連絡をしてくる人がいます。
休業日明けの対応内容をメールで連絡してくるというのならば何の問題もないのですが、「自分は焦っているので今すぐに対応してください」という都合で連絡をしてくる人がいます(例:休業日に増幅する焦燥)。
「今、電話に出て話を聞いてくれている時間で対応できるじゃないですか」
というような脅迫です。
それはそうなのですが、まさに「他人の都合」です。
それに合わせてしまうと、休業日が休業日ではなくなってしまいます。
休業日が休業日でなくなってしまうということは、常に緊張状態が続くことになります。
しかし一方で、「それくらいのことならば対応しようか」というような程度のことだったりもします。
自分が相手の立場だったら対応して欲しいと思うというような「自分を愛するように他人を愛しなさい」というようなことを思ったりもするわけです。
創業したての頃は、こうした問題に「事業主としてどうあるべきなのだろう」と考えましたが、様々な経験を元に完全に対応外にすることにしました。
相手をしてもロクな結果にならないんです。
これは「自分を愛するように他人を愛しなさい」という観念を利用した悪魔のやり方です。
自己愛の不足が投影される
結局、観念を利用した悪魔的な情報状態が、自己愛の不足を生み、観念による抵抗に応じて現実に投影されているというような感じがします。
事業関係はそのような感じでクリアしていますが、現実はより難解な問題を提示してきます。
しかし、現実をよく観察すると、「自分が関わることでマイナスになり、自分が労力をかけてゼロに戻している」というようなことが多方面で未だに残っています。
長期休暇で娘と長く関わるとわがままがひどくなり、「朝まで遊ぶ」というレベルで夜に寝なくなります。
妻も大変だろうと僕が関わると、娘のわがままとハイテンションとゴネがひどくなり、結局一種の「亭主元気で留守がいい」的な感じになってしまったりします。
また、要介護状態の母を筆頭に父や弟のために、たまには行ったほうが良かろうと実家に行くと母が叫びます。それは怒っているのではなく、僕に何かを伝えようと思って話すものの伝わらずにイライラしてしまい、叫ぶというような構造になっています。
さらにいうと、父と弟が、それぞれ相手への不満を相手も同席している中僕に言うので喧嘩になりかけます。
「僕は疫病神じゃないか」
とすら思ってしまいます。
ある意味「人のために」と思ってやることが、全部裏目に出るような感じです。
「特に自分のためにやりたいことが見当たらないので、まあ余力を他人のために使うか」と思うとロクなことが起こりません。
思考を止めてひたすら寝る
ということになると、「では、自己愛の不足をどうすれば良いのか?」ということになります。
「自己愛のために自分の都合をどんどん押し付けていこう」というのはちょっと違います。
基本的には、ひたすら寝るということが一番の自己愛です。
この時、「寝ているくらいだったら…」ということになりそうな気持ち、思考を止めるというところにだけ、一種の努力が必要です。
努力という表現が適切ではない場合は、俗っぽく「悪魔との戦い」と思っておくと良いと思います。
「そんなことをしているくらいなら…」という悪魔の声との戦いです。
もし眠れないとすれば、「思考を弱らせつつ体は動かす」というようなものや、入浴やストレッチ等々ひたすら体を緩めるというような「眠るための行動以外をしない」という感じが理想的です。
その他、思考をひたすら書き出したりすることやヴィパッサナーといった思考の範囲を出た「観察」が効きます。
「知能が下がった状態」で考えることはロクなことがありません。
元々、考えることは「不足を探すこと」にばかり費やされます。
なので、考えずにいればいるほどうまくいきます。
しかし「考えずにいよう」と思っても「不足空間」にいると、思考が働き始め、結果、ロクでもない行動と緊張と不眠と体調不良をもたらしたりします。
サマタは、状態と環境によって集中の作りやすさが異なります。良い健康状態で静かな環境があればやりやすいですが、そうした難しいことに手を出さなくても、ひとまずは寝るというのが最強です。
「他人の都合の空間」という虚像が破られる
すごく世間的に表現すると、自分自身が弱っている時は、頭が働いていないため、「他人の都合の空間」に反応してしまい、緊張と「ロクでもない答え」ばかりとなり、負のスパイラルが生じるという感じになります。
別の角度から見れば、他人の情報の空間に臨場感を感じすぎて、自分自身の空間が侵食されているという感じです。これは相手のレベルの低い重圧に自分が押し下げられているというような感じです。
するとどうなるかというと、たとえは悪いですが、経営者とアルバイトくらいの思考の差と収益効率のような感じになってしまいます。
アルバイトと言うとたいていは時給となっています。「1時間あたりで1000円ちょっと」ということで、8時間のフルタイムで1万円くらいというような計算になってしまいます。
月のうち20日間、約160時間で20万円というような計算をしてしまいます。
しかし、経営者側となると、ある判断だけで20万円、200万円、2000万円、2億円…ということが、数秒、数分で作れてしまうというような属性があります。
すなわち、何の焦りもなくしっかり頭が働いているような楽な状態であれば、踏ん張らなくても気軽に生み出せるようなものを、弱気な時は「160時間耐えて作り出そう」というような発想になってしまい、負のスパイラルに陥ってしまうということです。
極端に言うと、半ばゾンビのように月160時間過ごすようになってしまうなら、16時間でも寝て、数秒や数分で解決できる状態になる方が理にかなっています。
ということで、ひたすら寝て自分を取り戻すと「他人の都合の空間」という虚像が破られるという感じになります。
たいていの他人の都合、相手の焦燥は、思考と感情と時間感覚がごっちゃになっていることから起こっています。
相手の知能を高め、思考と感情の切り離しができれば相手も目が覚めることがありますが、単に相手の言う事を聞いているようでは、そうしたことはやりにくくなります。
時間を縮められないような領域
余談ですが、世の中には、「数秒で解決する」というようなものではなく、かならずその時間が必要になるというケースがあります。時間を縮められないような領域ですね。
「8時間現場を見守る」というようなものです。警備の仕事などはわかりやすいですし、店舗であれば営業時間中は暇でもひとまず店先に立っていなければならないというようなものがそれに当たります。
個人的には、育児や介護でそうした「時間を短縮しようがない空間」がたくさん入ってきました。
こういうものに対しては、工夫なり考え方なりでは何ともできないものがたくさんあります。
乳幼児の育児等々にありがちですが、子の睡眠時間が「24時間のうち12時間」となると、「制度を決めているような外で働いているだけの人たち」は妄想で、8時間寝て4時間は自由時間があるじゃないかと思うわけです。
しかし、12時間は自由時間があるじゃないかと思っても、24時間緊張が続くんですね。スキマ時間の寄せ集めではなく、「自由が確定している時間」というものの重要性を理解していないフシがあります。
店舗であれば、店が暇でも給料は発生します。なぜなら時間を拘束し少なからず緊張を受け持っているわけですからね。
しかし家庭となるとそれが見えないというのは、知能が低いか下がっているということになります。
また、この「わずかながらの緊張」とか「相手の空間」というものに影響されないように、個人的には、営業時間外に業務のメールは原則見れないようにしてあります。
見ようと思った時に見れる状態にするというのはいいですが、スマートフォン上のメール受信等々の「常時接続」の状態は、常時緊張をもたらしてしまいます。そうなると他人の都合、他人の空間に引きずられてしまいます。
引っ張る側で居続けるために
すごく単純にまとめると、不安や焦燥を持った相手の変性意識空間に影響されるとロクなことはないということになります。
自分の状態が弱ると相手の空間に引っ張られてしまいます。様々な工夫で相手に引っ張られないようにするということも大切ですが、一番は常に相手より大きくいることです。この大きさは、存在的な大きさであり、情報的な大きさであり、別の側面から表現すると抽象度の高さです。
一旦何かの原因で弱ると、思考が倫理観等を用いてさらに弱めてきます。
そうなると負のスパイラルに陥ります。
ということで、引っ張る側で居続けるために「寝る」ということです。
緊張と「緊張をもたらす思考」をどれだけ取り除くか
ただ、基本的には寝るというのが一番ですが、全体像としては、緊張と「緊張をもたらす思考」をどれだけ取り除くかというようなものになります。
ニートのような生活をして基本的によく寝ているはずの人も、結局起きている時に「緊張をもたらす思考」によって緊張を繰り返しているという場合があります。
それでは意味がありません。
ニートであることは無属性ですが、本人も結局「現状の自分を肯定するための論理の組み立て」などに緊張しています。
「他人の都合に合わせてたまるか」という抵抗によって、他人に影響されているということになります。
なるべく思考を用いず緊張と「緊張をもたらす思考」をどれだけ取り除くかというところが重要です。
寝て解決しないなら、論理空間としての思考と情動を切り離し、情動記憶という情報を破壊するなりがいいですね。
たいていの緊張は、生存本能と記憶による恐怖心から来ていますから。