リソース不足と他責思考についてでも触れていこうと思います。
会社経営であれ、育児や介護といったものであれ、何かがうまくいかないと他責思考になる人達がいます。
たいていは「初めの見積もりが甘かっただけ」ということが原因なのですが、他責思考に陥っていては解決してくことはできません。
大切なのは高い視点と意図を持つことです。
「最初の見積もり」が甘いというのは致し方ない面があります。どれだけ事前に情報を集めたとしてもそれは「その当時のその環境の他人の経験」です。拾えるものはありますが、そのまま適用できるものではありません。実際の経験のフィードバックや集まってくる情報等々、成長したからこそ見えてくるものもあります。
問題はその先です。
「初めの見積もりが甘かった」というところから、誰かのせいにしたり、負担を強いるようなことをしたりというような思考しかできないというのが問題です。
ということで、「離婚した友人たちの観察」を元に育児や夫婦関係を中心にリソース不足と他責思考について触れていきます。
一元化して考えてはならない部分を一元化して自己正当化すると破綻しやすい
たいてい何かしらの問題が起こる時はリソースが不足しています。
そして「自分は変わらなくていい」という自分を固定化しようとする観念があると、リソース(ここでは広い意味での資源です)不足からその空間が破綻します。極端に言えば、会社であれば廃業、夫婦であれば離婚等です。そこまでいかなくても、経営難や家族間の関係性の事実的破綻というようなことが起こります。
一元化して考えてはならない部分を一元化して自己正当化を行ってしまうとそうした破綻が訪れます。
「ある条件下では」
というパターンを検討していない場合です。
「ある条件下では」ということが見えていない場合
よくあるのは、会社経営であれば、「あの会社の仕組みを模倣すれば成り立つだろう」という予測です。
蓋を開けてみると、「会社の収益は大したことがなく、別途不動産収入があるから成り立っている」という場合がよくあります。
「社長の実家が卸売業を営んでいて、仕入れがやたらと安い」という場合もあります。
そうしたものは、実際の営業利益のあり方を考えていけばわかっていきます。
ただ、それを「あれくらいなら自分でもできる」と早合点すると破綻するという感じです。
模倣してやり出すというのはいいのですが、「利益が足りない」という点がすぐに見えてきます。そこからは、かつての自分の「予想」を甘かったものとして切り捨てるか、それともそこから発展させるかの判断や決断を迫られることになります。
妻が保持するリソース
家庭においても同様です。
世の中では、「なぜ他の家ではちゃんとできているはずなのに、うちの妻はだらしがないのだろう?」というようなことを言う人がいます。
よく見ると、「そうしたものが成り立つのは、関係性が良好であるという前提が必要ではあるものの、どちらかの両親と同居をしていたり、実家が近くにあって両親からの支援がある場合に限る。そうでない場合は、潤沢な資産を用いて外注し、労力を省いている」
ということが見えていない場合があります。
しかし、他責思考に陥っている人は
「妻がサボっているのだ」
と思ってしまったりします。
核家族化する前の、大家族かつ地域コミュニティがしっかりしていた社会における前提を何の調整もなしに適用するとそういう思考になります。
核家族で一般的な賃金ベースの収入・資産しかない場合、時間、労力、資金といったものだけでなく、個人としての意識を取り戻すための「ひとり時間」を確保するためのリソースが圧倒的に不足しています。
日々の雑事においては、二人でやれば10分で終わることを一人でやると1時間かかるようなこともあります。
そうなるとさらに疲弊していきます。
では、妻の側が他責思考の矛先として夫だけを責めたとして、夫がリソース不足を補えるのかといえば、それにも限界があります。時間、気力体力、資産、すべてにおいて不足するようになります。
待っているのは関係性の破綻です。
離婚した友人たちの観察
こうした「リソース不足」と他責思考の関係については、「離婚した友人たち」を長年観察していて気づきました。
最初に気づいたのは26歳くらいの時です。友だちは24歳で結婚しましたが、26歳の時、子どもが1歳の時に離婚しました。
相手は、保育士で育児・保育のプロであったはずですが、それでも俗に言う「育児ノイローゼ」で田舎に帰っていきました。「田舎に帰った」ということで、京都に親戚も何もいないような人でした。学校を卒業して学校時代の友人もそれぞれの地方に帰ったりして、交友関係は広くなかったようです。
「彼らはなぜ破綻したのだろう?」
ということに大いに関心がありました。
「保育の現場経験もある保育のプロがなぜ育児ノイローゼになるのだろう?」
「普通に働いて家にお金を入れていて、休みの日に育児に参加していた友人は、何を間違えたのだろう?」
素朴な疑問だったのですが、その旨を母に聞いてみると
「家に一人でいて育て続けてたの?じゃあ無理無理」
ということのようでした。
見積もりが甘いと、夫、妻双方そして子が疲弊していきます。
夫は、妻は、父は、母は「こうあるべきだ」という前提が、一昔前のかなり環境の整っていた時代をモデルとして形成されています。
「外でしっかり働いているのに」
それはその通りです。
しかし、家には両親等々がいたり、兄弟姉妹、さらには近所の人までリソース不足を補ってくれていたというような社会環境があります。
子が生まれたての頃はお母さんは「ハイ」の状態です。
言い方は悪いですが、その状態で「いける」と思ったことは酔っ払いの意見と変わりありません。
つまり、酔いが残っているときにはハイの状態で動けても、酔いが覚めたら状況は変わるということです。
本来は、「資金」や、ある意味での「人的リソース」、そして「行政等において使える制度」等々によって、余裕を持たせなければなりません。
「働いていないんだから家事くらいは…」
ではありません。
それは夫側、妻側にも言えることです。
「それくらいはやって当然だ」と強要することも、「それくらいはやらなければ」と責任感を持ちすぎることも間違いだと考えることができます。
他責思考をやめて高い視点と意図を持つ
こうした時に重要になるのは他責思考をやめて高い視点と意図を持つという点です。
他責思考を持っている時点で知能が下がっています。
ひとまず他責思考をやめて「必ずより良い状態になることができる」という強い意図を持つと、高い視点から物事を見ることができるようになり、見えていなかった問題点がよく見えるようになります。
もちろん手前には気力と体力を回復させることも大切になってきます。
「状況を改善するための頭を働かせるには、回復が必要なのだ」ということすら他責思考に陥っていると見えにくくなります。
「もしかするとリソース不足なのかもしれない。リソースが不足しているのは本当だろうか?」
ということを他責思考に陥らずに、モデル化して計算していくと実態も見えてきます。
人員不足的問題を「気合いでやれ」というのも間違いです。
そういうのは古いブラック企業体質であり、不況時の致し方なかった時代のカンフル剤的なやり方です。
一時しのぎのやり方を続けることは、その先の破綻を意味します。
また、計算についてですが、例えばダビスタ(競走馬育成シミュレーションゲーム)においては、レースに出走させると「体重」が減ります。また強度の高い調教をしたときも同様です。
そうして体重が減りすぎたときにはどうするかというと「放牧」をします。でないと、競走馬が「予後不良」となる場合があります。
俗に言う育児ワンオペというのはこの状態です。
その状態での放牧とは、例えば、関係性が良好な親元に帰り、両親に少し見てもらって昼寝をするということやひとり時間を満喫するというようなことになります。
時間的計算からリソース不足を考えてみる
そう考えると時間的計算が可能になります。
例えば、関係性が良好な実家が近くにあって、週に一回、4時間そうした時間が取れる、ということになれば、年間で約200時間、3年で約600時間の余裕が生まれます。
週に二回、6時間ずつであれば、年間で約600時間、3年で約1800時間の余裕が生まれます。
もちろんこの時間というのは量であり、質は別の要素として考えなければなりません。
また、単純な時間数だけでなく、ある程度の時間のまとまりというものも質に関わってきます。
ただ、量としての時間で考えても、そうした環境がある人と無い人とでは、年間でそれくらいの時間的余裕の差があるということになります。
それを一元化して、「育児休業中である以上、母親である以上、こうあるべきだ。他の人はできている」と考えるのは誤りです。
「今後のために」などとは思わず、育児休業の給付金があるなら使い切るくらいのつもりで余裕を作るということも考えられるようになります。
外国を参考にするなら様々な側面や文脈を見なければならない
「外国では核家族でうまくやっているじゃないか」というのも盲点だらけの考えです。
「繊細か鈍感か」という遺伝子レベルでの違いもありますし、ベビーシッター等のインフラも整っていたりします。
日本では、たいてい昔からアメリカに追いつき追い越せと思って表面的に風習を取り入れて、後から間違いだったと気づくということがよくあります。
核家族化もひとつであり、粉ミルクも一人部屋も早期に長時間保育園に預けるというのも、繊細なアジア人の遺伝子には合っていません。そうしたものは、致し方ない場合に取る方法です。最初からそれを選択するというのは、資本主義という一種の社会的洗脳の結果だと考えることができます。
たいてい後で「免疫やオキシトシン受容体の発達の点で問題がある」等々、取り返しがつかなくなってから語られだしたりしています。
近年では、外国において「子が眠らないから睡眠薬を」という極端に合理性を追求した結果、後に精神病患者が激増するということになったりしています。
経済においても、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような、「稼いで社会に還元する、だからこそ稼ぎまくる」という構造がセットで導入されているならまだしも、「営利の追求」という部分だけが導入されて歪んだりしているわけです。
リソース不足であることに気づいた時に取る方法
ということで「子を大切にしたい」というような「明らかな意図」があるにも関わらず、何かしらで疲弊し、状態が悪くなっている時、「リソース不足なのかもしれない」ということをまず念頭に置くということが重要です。
そうするとリソース不足に陥っている原因の発見と対処法、そしてそうした対処法を選択していない心理的抵抗などが見えてきます。
一番の原因は低い視点からの「固定観念」が形成する「自分はこうで世間もこうなんだから、あの人はこうあるべきだ」という他責思考です。
妻がパンク寸前だからとフルタイムで働いている夫が担うとそれはそれで破綻に向かいます。根本は、全体的なリソース不足です。それも一つの方法ですが、根本解決にはなりません。
(企業においても一年間、週に二回くらいは「強制育休取得」という制度を作っても良いのではないかと思います。もちろん育児休業給付は賃金のすべてではないため、不足分は企業負担で。あとしばらくの間「残業禁止」という制度もあれば尚良しだと思います)
短期的に無駄なものを処分して、リソース不足を解消するというのもひとつです。
例えば、サンデードライバーであるのならば車を売却し、浮いたローン分を家政婦サービス、宅食サービスの利用等に当てるということも検討することができます。
また遠方であろうが子の世話を両親に頼んでもいいですし、それがあてにならない場合、一時預かりなどを利用するというのも一つです(ちなみに僕は使ったことがないためなんとも言えない部分もあります)。
この時に「今は専業なんだから」「子がかわいそう」「今まで一人でやってきたのに」と、夫側、妻側が心理的抵抗を持ってしまう場合があります。
しかしながらその選択は、夫婦と子、全員のための選択になり得ます。
「イライラしている両親に囲まれるよりマシ」ということを子は思っているかもしれません。
資金面についての不足に関しては、全体的なリソース不足を補うために借りてでも状態を整えたほうが良いと考えることができます。
「何もしないならせめてお金くらい出してください。出すのが嫌ならせめて貸してください」と両親、義両親をあたってもいいですし、無理なら低金利の融資制度を探してでも資金を作って余裕を作ったほうが良いと思います。
あとでいくらでも稼げますから。
それまでに破綻すればまさに「元も子もない」という感じになります。
「家族を最高の状態にする」という意図を持つ
ひとまず、相手がひどい言動を取ったりしていても、相手が悪いということを棚上げして「家族を最高の状態にする」という意図を持つというのが重要です。
他責思考や労力の押し付け合いをやめて
「もし原因がリソース不足にあるとすれば…」
というところに着眼すると、思考の視点が高まります。
夫婦間で建設的な話し合いもできます。
それを阻害するものが固定観念です。
それを保持することで万事うまくいくのならばいいのですが、うまくいかないのであれば、その観念は現代社会や「自分の状況」に合っていないということです。
うまくいっていない時に
「相手が悪い。自分の考え方、観念、行動のすべてを変える気はない」
というのは間違いです。
確かに短期的、表面的に見れば悪いのは相手かもしれません。
しかし、それが昨日今日出会った人との関係であるのならばまだしも夫婦であるのならば、その状況は自分に都合の良い「固定観念」から生まれたものです。
相手の責任にしたところで短期的には表面的な問題は沈下するかもしれませんが、中長期的には破綻に向かいます。
そんなことをかつて離婚した友人たちを観察し、当時はわからなかった部分、見えなかった具体的な部分を言語化することができるようになった今、構造をまとめてみました。
もちろんこうした問題の原因はリソース不足や他責思考だけではありません。
ただ、人格の面の問題等に関しても、「固定観念」や「視点の低さ」、「意図の歪み」というものは常に関わっていると思っています。
仲良し夫婦、仲良し親子で溢れかえる世の中を願っています。