人間、短期的なストレスにはある程度対応できても、中長期的なものにはなかなか耐えられません。そして、短期的なストレスすら避けてしまうということの理由に「中長期的にかかるストレスを想像すること」が挙げられます。
ストレスというのは負荷であって、「暑いなぁ」とか「スクワットで太ももがきついぞ」といった身体的な負荷もありますが、精神の上でのストレスもあります。
それ自体はなくなりません。ただ、反応を変えるというか、ストレスを感じた時の反射のあり方を変えることはできます。
ただ、根本的な部分を避けて枝葉の部分だけを対処するようなことをしていては、短期的なストレスで終わるはずのものが中長期化していきます。
わかりやすいもので言えば、「言いたいことが言えない」「私さえ我慢すれば」というようなものですね。
もちろん、その言いたいこと、我慢していること自体が変な固定観念から来ている場合もあります。なので一概には言えませんが、本来は一日で終わるストレスが中長期化してしまうというのは、もったいない話です。
意識の上で解決する
そういった面で思い出すのが、園子温氏の映画「冷たい熱帯魚」における村田、つまりでんでん氏です。村田から社本に影響する部分が重要です(詳しくは作品をご覧ください)。
意識がスッと変わりますね。
「うまくやろう」と抵抗していたことが吹っ切れる感じです。
それが大切です。
中年引きこもり問題
稀にですが、特に見たくもないのに中年引きこもり問題についての映像を、出先のお店等でついているテレビで見ることがあります。
中年引きこもりについては様々なパターンがあるので、すべての事例に対応するとは思いませんが、その時に見た特集について少しだけ触れておきます。
中年の引きこもり男性たちが、「一回数千円くらいで面倒を見てくれる施設的なところ」に集まり、お菓子などを食べながら談話しているようなやつでした。
もちろん料金は親御さん等が出しています。少しでも外の世界に出てくれればというような切実な思いなのでしょう。
そして、彼らが食べた後のお菓子の袋を職員の人達が片付けているような風景が映っていました。
まとめると、中年引きこもりが、親のお金で引きこもり懇親会に行って、自分たちが食べ散らかしたものを片付けもせずに施設の人に拾わせているというような風景ですね(意図的にその部分を切り取っている感もあります)。
「自分が親ならどうしますか?」ということをどうしても考えてしまいます。
テクテクテクと歩いていって、無言でビンタですね。
「拾え」
で、終わらせると思います。
終わらないのであれば次はグーです。
ただ、こういう役を保護者がやらずにお金を払って外部委託しようとするとロクなことにはなりません(暴力や監禁や強制労働で訴訟を起こされている悪徳業者もいるようです)。
問題は、実際にビンタするかしないかという点ではありません。
「何を言っても、言わなくても、何をやっても、やらなくても、自分は殴られない」
と思っている根性に対していつでも殴る準備をするということですね。
そこは穏便に…
うるさい
今の時代にそんな…
うるさい
警察沙汰に…
構わない
というのが、意識の上での思い切りです。
抵抗に対する姿勢
結局は、何かしらの意図に対して「やりたい」という気持ちはあるものの抵抗があるわけです。
「こうありたい、こうなって欲しい」というものがありながら、抵抗があるという感じです。
たいてい「こうありたい、こうなって欲しい」というのがただの無駄な欲で、その欲を抑制するとか諦めるとかそうした方向で語られることがほとんどです。
もちろんそういう場合もあります。
しかし単に自分の中の抵抗、その奥にある恐怖心が原因になっている場合もあります。
「これを叶えたいが、あの方法は取れないし、かといって、あの方法は後々面倒になる…」
というようなものがせき止めているわけですね。
もちろんそうしたことを考えられるということは良いのですが、それでせき止められてしまうというのが問題です。
穏便にいきたいしなぁ…世間体があるしなぁ…
というようなギムキョなことを言っていては前に進みません。
思いを切る以外に解決策はない
残念ながら世の中には「何を言っても殴られない前提」で生きている人たちもいます。
それはそれでいいですが、その前提で過ごされると社会関係性の上で困る場合もあります。
単純には、「誰かが掃除しなくては汚くなる一方です。では、誰が掃除するのですか?」というような構造があったりするわけです。
先の例で言えば、「自分で食べたお菓子の袋すら、親が出したお金で誰かに拾ってもらう」というようなことをしているとすれば、単に甘えているだけですね。
ゴミを拾ってゴミ箱に入れるということは、動作としては可能です。
なぜ、しないのでしょうか?
なぜ、できないのでしょうか?
ナメているからですね。
なぜでしょうか?
「絶対に殴られない」
と思っているからです。
自分が加害者のようにはなりたくなくて、お金を払って業者にやってもらおうとしてもダメですね。手伝ってもらう程度ならいいですが、意識の上で思いを切らないと、ナメられた上に恨まれるか、悪徳業者にぼったくられるかしかありません。
いじめ不登校のような問題への助言
さて、極端な例になりますが、社会ではいじめ被害によって不登校になったりしてしまう場合があります。
それを周りの大人達はどう助言しているのかはわかりませんが、解決していないのならば、その助言は「当たり」ではないということになります。
ちなみに僕は昔から一つ上の学年の人たちに異常に嫌われます。
中学生の時は金髪の5人組くらいによく囲まれたりしました。
僕自身はいじめられたと思っていないので問題になっていませんが、客観的にみると「いじめ」のような構造になります。
登校するたび金髪数人に囲まれていたのでは、学校に行く気もなくなるでしょうが、僕の場合は、学校の友達に会いに行きたかったので、そうはしていられませんでした。
ということで、カバンに鉄板を入れていくことにしました。
いつでも殴る準備をしていたんですね。
いいんですよ、そんなやつはボコボコにしても。
「頭蓋骨を割ってやればいいんです」
という気持ちで登校していました。
学年は一つ上にもかかわらず、5人位の束でないとかかってもこれないんですよ。
その状況なら普通は正当防衛ですよ。
いや正当防衛じゃなくてもいいんです。家庭裁判所でも鑑別所でもなんでも来いです。
親が出てきてもそのようなクズの親なら親ごとボコボコにすればいいんです。
と、思っていました。
ということで、カバンに鉄板を仕込んでいることを、一つ上の学年の手下のような同級生がすぐに報告に行っていました。
すると、彼らの方から逃げました。
元々5人くらいでないとかかってこれないような小心者ですから。
さらに、友達のお兄さんとそのお友達が守ってくれましたね。
「そこまでするのはちょっと…」と思うなら、カバンに金槌を入れておいて、相手の頭や胴体以外、つまり四肢を狙えばいいんですね。
「胸ぐらをつかむ腕はどれですか?」
と腕を金槌でフルスイングですね。
死にはしませんから。
都合よくクリスマスを祝うくらいなら、都合よく新約聖書を使いましょう。
もしあなたの右手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。体の一部を失っても、全身がゲヘナ(地獄)に落ちるよりはマシである(マタイ5章30ですね。訳は適当です)。
「もしあなたの右手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい!」
と狂人のように金槌でフルスイングです。
同レベル以上の狂人でない限り相手は逃げます。
そういう思いを持つと、思いを持つだけで相手は逃げるんですよ。
なぜなら相手は「何を言っても、何をやっても自分は殴られない」と思っているんです。
でも、「本気で殴ってくるかもしれない」と思うと、考えが変わるんです。
実際に殴らなくても変わるんです。
僕は実際には一つ上の学年の人たちを殴ったことはありません。
こういうのを思い切りと言ったりします。
―
「それ命がけでやってんの?」
ということです。
相手はたいてい暇つぶし程度の気持ちでやっています。
こっちは命がけなんだという気合いを前にした時、適当な気合いでやってきているものは去るしかありません。
相手も命がけでやってきているなら一騎打ちです。
例えば「好きな女の子の取り合い」等々、本当に本気で来るならそれで構いません。
それはそれでいいじゃないですか。
「暴力や気合いや根性の否定」の底意
世の中では気合いと根性が否定されています。それはそれでいいのですが、気合いと根性を否定することで、「相手をナメて調子に乗ろう」ということをしているだけの人たちもいます。
「今の時代に暴力的解決なんて…」
「はいはい。気合いとか古いですから」
という論理で、「自分は何を言っても、何をやっても殴られない」という構造を作ろうとします。
確かに暴力は否定されるべきものです。
努力や気合いや根性もたいていは不要です。
ただ、そうした否定論、不要論を根拠に、「相手をナメてかかってやろう」ということをやる人達がいるんですね。
「今の時代にそういうの、いいんすか?」
と、自分の調子乗りや怠けを肯定しようというようなものです。裏を返せば、恐怖心を持ちながら楽をしたいということです。
なので、意識の上で負けてはいけません。
「いいっすよ~!」
とビンタします。
という心構えが重要です。
―
こうした類のものは「相談」だけではどうにもなりません。
解決策を聞いても「自分にはできない」となってしまいます。「ビンタ」等々具体的方法論の問題ではありません。精神の上での思い切りの問題です。
根本問題は「抵抗」であり、思い切りと気合いの問題になります。