アフォリズム 1031-1040
- 1031.なんとか走れるとしても
- 1032.先にやめる
- 1033.信念の脆弱性
- 1034.「守る教育」をする側に求められるもの
- 1035.合理性の追求の果て
- 1036.大声や全力疾走
- 1037.自分に合った寝具
- 1038.家庭に生活費を入れるということ
- 1039.妄想と体験
- 1040.自我を宥めること
1031.なんとか走れるとしても
パンクしたままでも一応なんとか走れるけどさ、やっぱり先に直してから走った方が良いんじゃないの?
1032.先にやめる
「こんな世の中にした奴らが悪い」「社会にはこんな問題が残っている」というのが本当のことだったとしても、どうせそこそこ満足いく仕事と資産と彼女・彼氏がいれば、社会批判なんてしなくなるだろ?
じゃあ、その社会批判みたいなのを先にやめてみたらどう?
やめたら「そこそこ満足いく仕事と資産と愛する人」が全て現れるとしても、それでもやめないの?
1033.信念の脆弱性
「いや、生活が良くなっても自分は…この信念は…」
本当に?
ほんとうに?
1034.「守る教育」をする側に求められるもの
「徳や真理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬から守る」とルソーは言う。
おそらくそれは、正しさを教えることでも、逆に何かを見せないことでもなく、ある意見を見聞きしたとしても汚染されないだけの「たくさんの視点を持つこと」を訓練するというものになるだろう。教養は「智によって動揺しないこと」を含むように、情報に動揺しないということもその中に含まれると考える。
教える側が情報に汚染され動揺していては元も子もない。
1035.合理性の追求の果て
合理性を追求すると、結局最適な状態からは遠ざかってしまう。
いくら論理を並べたところで、相手からの「心からの好意や信頼」を得ることはできないということがそれを示す。
「行動を約束することはできても感情を約束することはできない」ということはそうした構造を含む。
1036.大声や全力疾走
リラックスする、副交感神経を優位にするというのは正しいとしても、その方法、アプローチをあまり一元化するべきではない。
強烈な感情を一度強烈に活性化させて鎮める方が良い場合がある。
特にストレスを感じたときに歯を食いしばる癖がある、睡眠中に歯ぎしりをする場合は、無理にリラックスしようとせずに、大声を出したり全力疾走したりして交感神経を限界まで爆発させて自然に落ち着くというプロセスを踏んだほうが良い。
1037.自分に合った寝具
自分に合った寝具というものは、歪んだ状態の自分に合わせて選んではならない。
できるだけ矯正して、それから選ぶというのが正しい。
1038.家庭に生活費を入れるということ
家庭に生活費を入れるということは、料理において材料を調達してきたという程度のことである。
それはそれで大したことではあるものの、それを調理して料理に仕上げるというプロセスやその前後の準備や片付けの作業を軽視してはならない。
1039.妄想と体験
相手に対して何かしらの不満があるのであれば、可能な限りその相手の活動を体験してみると良い。
自分の想像、想定が自己都合の妄想であったことに気づくこともあるだろう。
相手の能力が低いわけでも精神が未熟なわけでもなく怠けているわけでもなく、単に想定以上に労力や精神的負荷が強いという場合もある。
自分自身がその体験をしてみると、実際の状況や構造がより良く理解できる。
犯罪を犯した者が発狂した原因を理解することができるかもしれないし、相手を単に異常者であると見ることもなくなるかもしれない。犯罪自体は抑制されるべきものではあるものの、意識が犯罪者を責めることだけに絞られたり、問題解決の論点がずれたりすることは避けるべきである。
ただ、もちろん相手が狂人であったり、単に怠けているだけの場合もあるので一律には論じ得ない。
1040.自我を宥めること
今に集中すること、瞬間的な心の移動等々それらが抽象的で把握できない時、一点に集中して気を落ち着かせることができない時、ひとまず自我を宥めてみることを推奨する。
その方法は、紙に思考を書き出すことである。
内容はどのような内容でも構わない。なお、書くことで情報処理のスピードを落とすことができるため、手書きである方が良い。
もちろんその内容を誰かと共有してはならない。書き終わったら燃やすなり破くなりして廃棄すれば良い。
また、その内容と向き合う必要もなければ、行動として取り組む必要もない。もちろん向き合って取り組んでも構わない。
ただ、渦巻いている思考や感情を「聞いてやる」ということである。抽象的な感情や感覚、意図を言語化して、自分自身が自分自身の唯一の理解者となるということになる。
どのような内容であっても頭に浮かんだことは徹底的に書き出す。内容が重複していようがどこまでも書き出す。そんなことをしていると、やがて自我が落ち着き、他人への依存も減っていくだろう。
本当に自分自身が自分自身の理解者となった時、客観的世界、客観的宇宙といった概念を超えた、本来の世界や宇宙を直感で理解することになる。