「なんとかなる」
これは僕が17歳くらいの時、父の事業破綻の影響が家庭内にも本格化し始めていた時、母が買ってきた招き猫のような置物に書いてあった言葉です。
「なんとかなる」
うん。いい言葉ですね。
ということで、なんとかなるということについて、自我とバトルを繰り広げてみましょう。
「なんとかなるという証拠を見せろ」
というのがアイツこと自我ですね。
なぜですか?なぜ証拠を見せろ、ということになるのでしょうか?
安心したいからですね。
いつの話ですか?
ひとまず今ですね。
「今すぐに安心したい」
ということです。
もっと言えば、「今も、そして未来も」、ということになりますが、ひとまずは「今すぐに」とか「可能な限りすぐに」ということを思っていますね。
今すぐに安心したいから、「なんとかなるという証拠を出せ!」という思考が出てくるわけですね。
さあ、ここからさらにアイツをどんどん追い詰めてみましょう。普通は自我対自我の戦いは、終わりがないか、勝てないかになりますが、僕は勝てますね。
では、ひとまず例えとして「病気で倒れた母の容態」についてでも題材にしてみましょうか。
まず母は、おそらく苦しいですが、僕は苦しくありませんね。
アイツは、母が苦しいのをなんとも思わないというのはいかがなものか?
となりますね。
それで世間に評価されたいという欲か、世間から排除されることへの恐怖かというところから、心配する自分になりたいと思っていたりしますね。
ということで、それも、今すぐに自分が安心したいというだけです。
どうせ根本は、「今晩よろしく!の大前提となる最低限のいい人ラインに立っていないと、よろしくどころじゃなくなるよな」というモテへの意識も含まれています。
また、病院に運び込まれた段階で、今後起こり得るパターンとしては、手術の甲斐なくそのまま亡くなる、後遺症が残り施設入居となる、自宅に帰るとなると、介護が必要になる、費用が必要となる、というようなものになります。さほど介助の必要もないような少しの後遺症で帰ってくる、前と変わらぬ様子で帰ってくるという場合もあります。
ただ、そのうちどれかになるだけです。
どれかになるだけじゃないですか。
ということでなんとかなります。
そして、自分のこととして、母に任せていたことを自分でしなければなくなる、母を心の拠り所にしていたが、その拠り所がなくなる、金銭面で頼りにしていたができなくなるというようなものもあるかもしれません。
それらは、自分の怠惰や精神の未成熟、資産のなさなどが要因であって、単に依存してもたれかかっていたものが外れるというだけです。
ということで、単に自分でするようになる、精神的・経済的に自立するというような方向に行くだけかもしれませんし、もしかしたら別の援助者が出てくるという場合もあります。
なんとかなりますね。
しかしアイツの野郎は「そうじゃなくて、今までのように元気でいて、自分が頼り甘えられるようなお母さんでいて欲しいんだ!」というマザコンのようなことをいうかもしれません。
「だから、今すぐになんとかなるという証拠を出せ!」というような騒ぎをします。
本質的には、単に今の自分の感情をどうにかしたいと言うだけです。もっと端的に言えば「安心したい」というだけです。
いつ?
今および未来です。
自他ともに納得できる内容で、という条件をつけてきます。
何のためにですか?
安心のためです。
「自分が様々な面で縋りタカれるお母さんを奪わないで!」ということです。
ただ、「なんとか」はなります。
なるようにはなります。
では、このなるようになるにあたって、精神の方はどうしておけば良いのでしょうか?
今、安心して、意識の向きを明るくしておけば良いというだけになります。
しかし自我は、「そのためには」という条件をつけてきます。
「そのためにはお母さんに戻ってきて欲しいんだ!」「安心できるエビデンスを!」ということで、ループを開始させようとします。
バレてんぞ~
…
さて、「なんとかなる」ということなので、なんとかなるんです。
答えは常にシンプルです。
思考が、それを難しくさせます。
「おいおい、それでは母は治らないぞ。自分は困るぞ」
と思考が働きます。
いいんですよ。治らなくても。
「『治らなくてもいい』って言うような最低の人間か!」というようなことを自我は叫ぶかもしれませんが、心の安穏が先なんですね。
ものによっては
できるだけ恥をかかずに、穏便に、負担少なく…
というようなことで、思考が巡るんですね。
なぜですか?
自分が為す全ての行動に安心がくっついていて欲しいからです。
「自分は困るぞ」
いいんですよ。安心が根底にあって、ただの行為を為すだけなら、その場の最適な行動を取っているだけで困らないですから。
「嫌だ!思うようにならないと自分は困るんだ!」
ん?
困るんだ?
いつ困ってる?
今困ってるよね?
―
「なんとかなる」
というようなことは、実はかなり多用されています。
全てではありませんが、ある「理(ことわり)」に沿っています。
それは、「苦しい時の神頼み」をはじめとした各宗教の方式ですね。自我の領域から離れようとしているわけです。
それらは余計な観念がくっついているので、誤りも含まれていますが、すべてのものに共通している部分があります。
それは、
「私」ではどうにもならないので、「とにかく最高の結果をください」と丸投げしていることです。
では、なぜ誤りが含まれているのか、ということになりますが、単に自我を手放しただけなのに、「神」が叶えたというような観念がくっつき、それをもって自我が思考を始めてしまうからです。
また、「ある特定の結果」にだけ執着しているからです。その求めている「特定の結果」は、自我が考えて導き出したことです。
本来は「なんとかなる」という観念を梯子として、自我を手放し、今すぐに安心するというのが正解です。
その安心に従って、現象が展開します。
しかし、「なんとかなる」は安心や意識の向きのハシゴであって、現象を操作するのためのツールではありません。
「AをBに変えるために」というものではありません。
今、「なんとかなる」の状態になるというのが重要です。
しかし、また思考は判断を始めようとします。
それについては続編で触れようと思います。
続編→現実を無視する