唯物論者とは、もちろん唯物論を支持している人たちであり、この唯物論は、全てを物の作用、物理的な現象として捉えるという感じであり、客観的な世界を肯定し、物質の状態や現象が全てであるというような考えです。
かつて読んだ本に「生理学者の99%は唯物論者です」という一文がありました。
まずイラッとするのは「生理学者のような頭のいい人がみんな言ってるんだから唯物論が正しいよね」という誘導の傾向が見られることですが、そんなことは本題ではありません。
たとえ、生理的機能が物理的に観測可能であっても、「全部、物質の作用にしか過ぎない」と帰結できる安易さが問題です。
唯物論は簡単に覆すことができます。物質の状態、現象をもってしても、最終的にこの心がその状態を受け取っていることについては何の説明もしていないからです。
ということで唯物論者は、自然科学を勉強するあまり、そうした面が盲点となっている「科学偏重主義のあまり頭の良くない人」という感じになります。
唯物論とは
唯物論とは全てを物として捉え、物理的な現象として捉えるということですが、客観的な物質の状態や現象で全てが説明できるという感じの考え方です。
文学的表現ということになるのか、稀に具体的で実践的な理論を唯物論、抽象的で机上の空論的になっていることを観念論と表現する人がいますが、根本的な唯物論と観念論を勘違いしてしまいますので、こうした表現はやめておいたほうが良いと思います。
大昔から唯物論と観念論は対立関係にあり、唯物論者が観念論者を叩くためにこうした語句の用法を流行らせたのではないかとすら思っています。
少なくとも唯物論は、一説であり主義の範囲なので、絶対性はありません。解釈可能性のひとつとしては考えられますが、「全てを物としてみることで世界を説明できる」ということは明らかな誤謬ですので気をつけてください。
さて、唯物論の内容ですが、例えば、怒りに満ちているときでも、脳波がどうだとか、電気信号的にどうだとかそうした客観的に観測できる側面をもって、「怒りとは脳波がこういう状態になっており、体はこういう状態になることを指す」というようなことを言うのが唯物論です。
しかしながら、それは客観的なデータを観測したに過ぎません。ではその結果、この心が怒りを感じているということについてはどう説明しているのでしょうか?
何の説明もしていません。
全てを物質の状態や関係性という感じで捉えるので、ある種の客観的な世界を前提としています。そういうわけで唯物論の延長で社会を考えた場合には、社会主義などが生まれるわけです。個人の認識をさておき、客観世界の全体を重視するからです。
仮観の世界観
これは中論(中観論)でいうところの仮観の世界観です。
しかしながら、社会がどうあれ、物理的な観測結果がどうあれ、最終的にはこの心が受け取るものが世界の全てです。
ある現象を説明する時に、科学的に観測した結果を元に説明するのはいいですが、それは観測結果や科学的な因果関係・相関関係を示しただけで、それそのものの認識自体は何の説明もしていないのです。
では一方で、観念論ならばそれを説明できるかということになりますが、観念論もただのひとつの解釈可能性であり一つの主義です。中論や唯識論すらただの派閥、主義なのでそれすらも超えて体感で感じるしかありません。
主体の説明
それはいきなりオチのような話になりますが、唯物論者が大好きな物質の作用による説明に対して「物質がそのように作用しても、そもそもイライラって何?」というような質問を投げかけることで、正しさは覆るという点です。
たとえば、脳の中で、どういう物質が分泌されて、受容体がそれを受け取ったら「イライラ」が起こる、と言われても、「だからそもそもイライラって何?」という質問に対して、先の回答は答えにならないということです。
その物質を受け取って、脳が反応しているのはわかるけど、イライラという感情を感じている主体の説明にはなっていない、ということですね。
物質の作用や状態や位置関係
物質の作用で説明がつくのは途中までで、結局それを根拠に、「全ては物質の作用、状態、位置関係」などで「すべて」を説明することは不可能なことは明らかです。
こういう研究で、薬を作ったりするのは大いに結構ですが、だからといって「この世の全て」を説明することはできません。
「物質の状態がこうなるとこのように感じる」というようなことを調べたりするのはいいですが、そうしたやり方でいくら調べ上げていったところで「感じているということはどういうことか?」には何の答えも示していないということです。
物理学や生理学、果ては社会学などを勉強するあまり、客観的な物質の動きだけでこの世のすべてを説明できると思っているのが唯物論者ですが、それは単なる集中による盲点、情報の偏りによるフレームの歪みです。
全ては物質だと言い切れるか
結局感じているということはどういうことか、それを考えると、物質として観測は可能でも、主体は物質ではないのではないか、という疑問が残ります。物質であろうがなかろうが、今を認識している存在の中心のただ一点は、物質の流れを見ても観測できません。
数学上の点のようなもので、面積を持てば定義上点ではなくなってしまいますが、線が交わるところに点は確実にあります。円の中心を物理的に観測できる範囲で定義することはできませんが、中心の点は必ずあります。
この心はその点のようなものです。数学上の点を客観的に完璧に示すことができないように、物理的、物質的な説明ですべてを説明することはできません。
考えている時、感じている時に、どんな動きをしているのかは何かの機械で観測できても、それは「動きを観測しただけ」で、対象そのものの説明にはなっていません。
それを前提とした場合に「全ては物質」と言い切れるかどうか、唯物論者の代表として先の著者に聞いてみたいですね。
あくまで、物理空間として、物理宇宙という前提のもと、対象を物質と置いた場合の帰結にしか過ぎません。そういう前提を勝手に設定してしまうのは「お勉強」のしすぎです。本に書いてあること、観測できることしか思考の対象に入ってこない、という科学野郎の癖で、ある意味でかわいそうです。
しかし、観測できないものの存在を認める認めない、ということになったときに変な宗教の教義でその隙間を埋めるようなことはいけませんね。
概ねこうした科学偏重主義の唯物論者ほど、その世界解釈の限界にたどり着いた時、カルト宗教にハマっていきます。
全てが物質的な現象だとしても受け取りは?
ある物理現象もちろん、感情が起こっているときの物理現象を観測できたとしても、その状態自体、その信号自体を受け取っているのは何か、というところは唯物論では説明できないのです。
唯物論において、全てはものだということになっていますが、「物の状態を認識して受け取っているものは何か?」というところの、「物質的な現象」や「物の状態」については説明できても、最終的な結果を認識しているものについては説明できていないのです。
幽霊が見えているという人も、そうした情報をいま心が受け取っているだけかも知れません。唯物論者は、客観的物理世界でそうした根拠となるデータが観測されないと、そうした人の世界で起こっていることを認めません。
そこには、客観的で物理的・物質的に何かの存在を観測しないといけないという科学偏重主義が垣間見れます。
ただ、その人の中でそういう状態になっていて、それをその人の心が受け取っているのだから、客観的な証明などいらないのです。
ということで、唯物論者たちよ、体の不調に対して、ストレスが原因ですとか、偽薬効果だとかいう論理の逃げをするなよ。
統計はただの統計データで、因果関係を説明するものではないという感じですのであしからず。
ということで、いわゆる心というものは、作用をただ受け取っているだけのものかもしれません(心とは何か)。しかも流れていて、その場その場で、瞬間瞬間で受け取っては消えていく、ただそれだけのものなのかもしれません。
それには観念すらも入り込む余地が無いのです。
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