見えざる手によって「ちょうどいい感じ」になっていく、というような法則性があります。ただ、プロセスとして一時的にその流れを阻害するものあります。
だいたいの物事は「やりすぎ」に陥って「制限」がかかり、その壁が圧に負けて決壊するように崩壊し、分解して適切に馴染んでいくというような流れになっています。
何かしらの市場の広がりや社会変化が一気に広がり、ある地点で制限がかかってくるようになります。そして次は制限の方が「やりすぎ」ということになり、その空間は決壊します。
という流れなので、波に乗って慢心したり、逆に抗ったりするではなく静観するというのが一番です。
だいたいの流れを予測
どの時期にどのような状態になるか、ということを完全に予測することはできませんが「だいたいの流れ」というものは予測できます。
俗っぽい事柄であれば
「ホームセンターでも取り扱い出したということは、もうすぐ終わるな」
とか
「うちの母でも知っているようになってきたのならば、もうじき終わるな」
というようなものもその一つです。
そうした流行的なものの落ち着きというものも対象となりますが、社会環境の変化というようなものも同じようなものです。
ただ、社会においては「いけいけどんどん」に対して制限がかかり、制限によって瓦解するということがよくあります。
株や不動産のバブルとそれに対する課税、そしてその後の崩壊などは良い例ですし、「クレジット・デフォルト・スワップ」といったものによるマネーゲームの行き過ぎによる破綻なども同じようなものです。
(クレジット・デフォルト・スワップとは、信用リスク・破綻リスクを対象とするデリバティブ(金融派生商品)で、リスクの高さに応じて金利が増えるということから、稼ぎを増やすために意図的に対象の信用を落とすということがありました)
その他、かつての「消費者金融等ののグレーゾーン金利」とその後の判決、法整備、過払い金返還請求も同じようなものになるでしょう。
理性ではなく感情によって動く
理性ではなく感情によって動く事柄ほど、そうした流れは顕著になります。
「社会的な目標達成のため」という大義名分のもと行われるようなことでも、その裏には誰かの都合や感情が含まれていたりします。
そしてそれに反応する人たちは感情で反応します。それそのものがどうこうという面だけではなく「正義を盾にして堂々と」ということで、関係のない部分まで普段の鬱憤を交えてぶつけようとしたりもするわけです。
そうこうして感情が落ち着いてきたり、飽きてきたりすると落ち着きます。
なので、社会環境の変化が実際にもたらすものよりも、そうした人々の感情の変化を見ていくと、流れがつかみやすくなります。
「抜け道」を中心とした論理の穴と「行き過ぎ」の予見
そうした感情面に加え、「抜け道」を中心とした論理の穴と、人々の「行き過ぎ」を予見できればその後の流れはつかみやすくなります。
こうした仕組みがあって、性善説に基づけば良い広がりが続いてある一定の状況になった時に普通に落ち着く。
しかし、その仕組みには「悪用できる」という論理上の穴があり、それに対する対策、制限が加わり、適切な流れは阻害され、広がり方はぐちゃぐちゃになり、空間が崩壊するかインバランスとなる。
というような感じです。
検索の仕組みとスパムの関係が良い例になるでしょう。
結局何かの仕組みは、その中に抜け道的な穴があります。
そしてその穴を防ぐためにと、どんどん規制がかかってきます。
そして雁字搦めになって、空間がぐちゃぐちゃになっていきます。
抜け道やその穴を防ぐ制限を見越して静観する
そういうわけなので、抜け道やその穴を防ぐ制限を見越して静観するというのが一番です。
そうした論理の穴を含めて見えざる手が働きます。
稀に論理の穴が残ったままで、まだ制限がかかっていない場合に先行者利益的にうまくいく場合があります。
またそうしてうまくいっている人を見て「自分も追従する」ということをする人たちもいます。
何度か触れたような「動画やブログで食えると思っている人たち」のようなものです。
ただこうしたものは、市場の広がりの速度に応じた供給者の数と需要のバランスの変化、そして「行き過ぎに対する制限」が待っているので、「見えざる手の動き」を観察しながらでないと、ロクなことにはなりません。
スパム的な動きが起こり、一時的に稼げている人たちも、その後に起こる制限や運営側の排除行動で一気に萎んでいくことがあります(ネタがないからと人に迷惑をかけたり、犯罪行為にまで走るというのはどう考えても行き過ぎです)。
そう考えると、どのような流れになるかを予測するためには、多少なりとクレバーな頭が必要になるかもしれません。
「悪用する側」の思考回路と、それを防ぐ「制限」の方を組み立てる側の思考回路、両方を持っていると安心です。
高い視点を持つと「見えざる手」が観える
メディア等々による誘導の結果「社会の流れはこうらしいよ」とか「今の時代は、これからの時代は」言っているうちは、うまく使われるコマ側になります。
様々な人の「都合」や「大義名分を利用した利権づくり」というものを見据えた上で、全体的な流れを観るのが一番です。
そうした扇動に特に抗ったり卑屈になる必要はありません。
仕掛ける側の都合や反応している側の感情を見て、流れだけを静観しておけばよいのです。
仕掛けられている側の思考だけでは全体の流れが見えなくなるというのはもちろん、仕掛けている側の思考や、仕掛けている側への抗いの思考だけでもまだ足りません。
もう少し時間と空間を広げて、高い視点から渦巻いている「渦」を見ると「いつ、どのように」ということの完全な予測はできなくても、だいたいはわかってくるはずです。
そんな感じで、見えざる手が観えるようになってくると、どんどん憂いが無くなっていきます。
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