微かでも大きな果報

因果応報という言葉は、どうしても胡散臭いカルト宗教などに利用されがちです。なので、あまり使いたくない感じがしますが、比較的最近、父から聞いた話で気づいた、しんみりした微かでも大きな果報について触れていきます。 うちの寡黙な方のおばあちゃんが存命の頃、二人でよく食事に行きました。おばあちゃんは、特にグルメであるとかはしゃいで騒ぐという感じではなく、静かに黙って食べるような感じでした。 十代の頃、おばあちゃんも含め家族数人で行った時に、ほとんど黙ってふんふん言いながら、食事をする他の家族の姿を見るおばあちゃんを指して、

» 微かでも大きな果報の続きを読む


偶然への気付きと必要なき裏付け

生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。 自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれていることに気付きます。 また、願いのようなものが叶っているかいないかという点について、「特定の何か」に限定して「考えて」みると、叶っていないような気にもなりますが、抽象的な幸せに関しては、

» 偶然への気付きと必要なき裏付けの続きを読む


今すぐにはどうにもできないことへの評価

世の中には、外見や身分のようなものを判断材料にしている人がそこそこいます。その方が手っ取り早いということなのか、一種の恐怖心から「あちら側、こちら側」という壁を作るような感じで、時に拒絶し、時に許容します。 しかしながら、とりわけ身分的なものとして「今すぐにはどうにもできないこと」がたくさんありますし、直近の状況だけでその人の一生、全人格を評価することはできません。 そして「だったらどうなんだ?」としか思えないようなことを評価対象にしていたりします。その奥には「そうならば自分は経験済みでその全体像がわかるが、そうで

» 今すぐにはどうにもできないことへの評価の続きを読む


「大人になったらわかる」というような言葉

世の中では、事あるごとに「大人になったらわかる」というような言葉を使う人がいたりします。たいてい脳筋体育会系に多いですが、世のほとんど全てのことは「ならなくてもわかる」というのが本当のところです。 この「大人になったらわかる」といったタイプのセリフは「一人暮らしをしたらわかる」とか「社会人になったらわかる」「部下を持てばわかる」とか「親になったらわかる」「子を持てばわかる」といったようなものになります。まあ一種の先輩ヅラというか先人ヅラというか、といった感じですが、「先輩を敬え」的な脳筋体育会系の儒教的な感覚がふん

» 「大人になったらわかる」というような言葉の続きを読む