遠くへの展望

よく定義されているように、他人のために、しかも他人のためにのみなされる行為だけが道徳的であるとすれば、道徳的な行為というものは存在しない! 曙光 148 序

人生設計やキャリアビジョンというような概念がありますが、そうしたものが語られていると知った時、なぜそうした狭い枠組みの中で夢を見させるのだろうというようなことを思いました。

以前、子供に将来の夢を聞くことは、ほとんどの場合その人の潜在可能性を潰すというようなことを書いたことがあります。

日々使い古される人々

現状知っている中の具体的にカテゴライズされたような対象の中から選択するということは、己を縛ることになるのです。

枠組みに縛られた上でのキャリアビジョン

まあそうしたキャリアビジョンみたいなものを説いている人も、ひとつの枠組みの中での具体事例を研究して発表しているに過ぎないと思えば、一つの枠組みの世界を一応知ってみた、という経験にしかなりません。

しかしその枠組みに縛られてしまうと、文字通り資本主義という枠組み、経済社会という枠組みの中に縛られることになり、さらに下手をすれば従業員としての生き方しか見えないような人になってしまいます。

そのような人になってしまうと、どんな人になってしまうのでしょうか?

それは、そうした枠組みの中での成功法則以外のことが見えなくなってしまう人になってしまいます。

生きていくために本当にプラスになるのは知性だとしましょう。

それをある枠組みで見ると、知性を高めることではなく、客観的データとしての学歴が大事だという風に見えてしまうのです。

勤め人としての成功法則としてはそれが最良なのかもしれませんが、そうしたことに縛られてしまうと、逆に経済の本質というものが見えなくなってしまう場合があります。

15歳から社会に出て、20歳になる頃には、年間何億も稼ぐ人になるということも可能であるはずですが、そうした可能性は排除されてしまいます。

情報をたくさん詰め込んでみよう

「学校のこうした科目は稼ぐことにはあまり役立たない」と見切って、自分の好きな分野や自分が知らなかった分野のことを学習すればするほど、効率よく知性を成長させていくことができます。

ある小さな枠組みの中にいると、それが盲点となってしまうのです。

ただ、学歴は必要ありませんが、学力のようなものはおそらく必要になります。

たくさんの人と話をしてその裏側を推測したり、山盛り本を読んで著者の考えを色々と検討するというようなことが必要なのかもしれません。

あまりに頭の中に何も入れないということが続けば、「それまで得た情報」が家庭や義務教育、友人、マスメディアくらいになってしまいます。

そうなると、そうした情報源の中からしか世界を見ることしかできません。

変に植え付けられてしまった観念が強い力を保持した状態が続きます。

そうであるのならば、たくさんの情報を詰め込んで、それまでの固定概念を薄めてやればいいのです。

どのような状況にいる人でも、上手くいけばミナミの帝王ヤング編の萬田銀次郎のようになれるでしょう。

どうせ遠くを見るのなら

どうせ遠くを見るのなら、経済社会という枠組みを超えて、ただ自分が想像もできないくらいに幸せで安らかな状態にあるというところを設定してみましょう。

それならばどうあっても安全です。

僕は19歳の時に病気になった時、経済社会の中での生き方などさておき、どうあれば全ての苦しみを一生感じなくてよいのかということをずっと考えていました。

それが物であれ、仕事を含めた生き方であれ、人間関係であれ、何かを手に入れても、それに飽きたり、意図せずそれが壊れたり、失うかもしれないという煩いは残ったりと、それらとの関係は知らぬ間に変化していくことからは逃れられないということを前提として、どうあればよいかを探していました。

そのような状態にあると、それ以外のものはチンケに見えます。

キャリアビジョンなどを代表として数ある具体的な方法論や仕組みを理解することはできても、自分に影響を与えものではありませんでした。

「それはその枠組みではそうなのかもしれないが、それがどうした?」

という感じです。

本ブログ以外でも人からよく相談を受けることがありますが、その相談内容は概ね「今現状の問題に対して、どう解決すべきか?」というものです。

わかりやすい例えで言うと、「彼があまり連絡をくれないので、頻繁に連絡してくれるようにするにはどうしたらよいか?」

というような内容です。

しかしそれは何重にもフレームが設定されています。

現状の問題の解決は、「頻繁に連絡してくれるようになる」というようなものであるというふうに見えていますが、根本問題は、どうあれば自分が幸せで安らかでいれるか、という感じのはずです。

そう考えると、頻繁な連絡というものでなくてもいいですし、その彼でなくてもいいはずです。

むしろそうしたものを条件にしてしまっていることこそが、最大の煩いです。

その近視眼的な視点をもっと大きな枠組みにしていけば、自然とその問題は壊れます。具体的問題を解決しなくても、問題自体が壊れるのです。

「あれは何だったんだ?」

という感じになります。

だから、どうせ何かを思い描くなら、それを具体的にイメージすることができなくても、幸せや安らぎには条件が必要ないというような、言語を超えた領域を思い描くと良いでしょう。

少なくとも、世界を見る視点を高め、世界を見る枠組みを広くしていけばいくほど、今ある問題を解決しなくても、問題自体が勝手に崩れていくということを覚えておきましょう。

遠くへの展望 曙光 148

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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