道徳の変化

道徳にはたえず変形が施されて手が加えられている。― このことを引き起こすのは、上首尾の結末に終わる数々の犯罪である(たとえば、道徳的な考え方を新しくすることはすべてその一つに数えられる)。 曙光 98

いつでも決め事は解釈によっておかしくなっていきます。「道徳の変化」ということで、決め事など明文化されたもの、道徳など明文化されない不文律というようなものも常に変化し変形していきます。それが社会的なものであれば、当然に社会の変化に応じて変化していきます。

そしてその決め事も解釈によって取扱が変化し、時に変な方向に変化していきます。

解釈によって「うまいこと言うなぁ」となるのは、「心臓の肉1ポンドを切り取ってもいいけど、契約書にない『血』はダメよ」で有名なヴェニスの商人のポーシャみたいな言い訳ですが、これも従物として「血を流すことも含まれている」と解釈するのか、というような解釈問題になります。

弱者の怨恨やマネーを発端とした解釈変更

同様にルールも変えられ続けています。スポーツにおけるそれは一種のルサンチマンですね。都合が悪くなれば自分たちの都合の良いようにルールを勝手に変えますし、強い選手をお金で買ったり、逆に相手がそうした選手を抱えていたら「地元の人しか選手にしてはいけない」というルールを作ります。

都合が悪ければ解釈を変えたり、時に根本ルールを変えて自分たちが勝てるようにします。それのどこがフェアなのか聞きたいという感じです。こうした様子はただの弱者の怨恨というだけでなく、勝ち負けにお金などが関わるからでしょう。そうなると余計に解釈変更が必要になります。

勝ちたいけど勝てないからムカつく、勝てないからルールを変える、そんなことをし続けるくらいなら初めからしなければいいと思います。

そんな勝ち負けの事柄はこの世にあってもいいですが、なくてもいいものですから、イライラするくらいならやめておけばいいのに、それに「価値」をつけすぎるから変になっていくのでしょう。

狭義のルサンチマンとは少し違いますが、経済力、国力で勝てないからといって解釈変更によって「うちだってすごいんだ」と思いたがる、という点では、弱者による怨恨でしょう。「代理戦争」などという言葉もあるくらいですから。

理不尽な解釈変更

大昔の職場での話ですが、人事評価に「無届けの遅刻/欠勤をしなかった」というような項目がありました。

あるとき、決算が赤字になりそうだ、ということで人件費を圧縮しようとしたのでしょうか、先輩がこの項目で「ダメでした」というような評価になっていました。この方は真面目な方で、無届けの遅刻や欠勤などされていません。

そして、その方が課長に呼ばれました。

「なぜこの項目がダメになっているのでしょうか」

予想通り先輩は質問されました。

「一回欠勤してるだろう?」

「早朝に連絡させていただいてたはずですが」

「ん?この項目の意味わかってる?無届けの遅刻/ 『欠勤』よ。無届けの遅刻はしてないけど、欠勤したよね?」

「いやいや…」

「ん?無届けの遅刻、ここで一回切れるのよ。無届けの遅刻か『欠勤』があった、なかったって項目なのわかってる?」

「いやいや…」

「欠勤したよね?じゃあここバツよね。欠勤したんだからバツよね」

「ふざけるな!」

普段真面目な方だけに、ブチギレられました。確かに課長は犯罪の域です。

そしてそれを根拠にベースアップの数字が下げられました。多少問答はありましたが結局はどうなったのかはわかりません。

このような犯罪が、世の中には結構あるのではないでしょうか。こんな時には早々に退職しましょう。議論の必要はありません。

つまり問答無用で、退職してください。このようなお話の時もボイスメモをお忘れなく。

不当な賃下げへの対抗

若干の主張

道徳の変化 曙光 98

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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