「世の中には様々な考え方があると思うのですが、それぞれどれも正しく感じます」
よくあるパターンですが、その多様性を認めるとはどういうことか、についての回答です。
様々な表現の違いというものがあっても、答えは一つしかありません。
そのひとつの答えを「確認することができない」のであれば、その問いは考える必要のないことです。
世の中には様々な主義や宗教がありますが、どれも「ある仮定」に基づいた妄言です。何を主軸にしてどう解釈するのかによって、見解が変わってしまうものは、妄言といえば言いすぎかもしれませんが、妄言の部類に入ってしまいます。
では、世の中の全ての宗教が間違いなのでしょうか。
間違いです。
こう言うとムキになる人がいますが、宗教というもの自体が間違いです。たまに喧嘩になることを避けて、それぞれを認めるということをいう人がいますが、それは理屈としてはおかしくなります。
では世にたくさんありふれているその宗教というものは何か。
それは、ある形而上学的な命題に対して、絶対性を帯びた確認をすることができないことに対して、文献や口伝の伝統を根拠に無理やり定義して、それを元に行動様式を定めているものです。
ほとんどは自分より上位の絶対者の命令に従い、死後に良い所にいこうというようなものです。構造としては、なぜか絶対者など上位の存在がいます。そしてその上位存在の意志に従うという構造になっています。
文献で確認しても、文献で確認しただけです。ではどうして「その文献」が正しいとわかるのでしょうか。
しかしながら、その宗教の中で説かれていることの全てが間違いというわけではありません。しかしながら全てが正しいというわけでもありません。
ある主義を理解する能力というものは、所謂学力の範疇であり、構造を理解し、ある対象とある対象の差がわかるというだけなので無害ですが、その主義に同化すると、それは害を帯びてきます。
しかし、その主義に同化していたり、宗教の範疇に入っている人をどうにかしなければならないという理由もありません。
「その人の頭の中はそういった考えが巡っているのかな」というこちらの想像・推測でしかありません。
ですから、自分には関係ありません。
「そうですか、さようなら」
で終わります。
一方、表現の多様性というものがあります。
同じことをどういう方向性で解釈しているか、という点と、同じことを同じ方向性でどう表現しているか、という点があります。
前者は、例えばりんごを表現する際に、その味を表現するのか、色を表現するのか、形を表現するのか、という次元の違い、そして後者は、色をどのように表現するのかという違いです。
こう言った表現の違いというものは、たとえ違いがあっても喧嘩になることはありません。
お互いが違う表現をしていても、
「相手はあの方向から表現しているのだな」
ということが、お互いにわかるからです。
同様に、思考の限界まで考えぬいた人は、理屈の行き詰まりが大体どのあたりかわかっています。
だからこそ、本来喧嘩にはなりません。
喧嘩になるとすれば、何かの固定観念によって感情的に反応している時です。
そして議論に勝たなければならないと思っているのは、自尊心が傷つくとか、交渉で都合が悪いとか、そういった恐怖心が根底にあるからです。
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