実は絶望には考えられないような価値があります。
どのような価値か?
それは世界を捉える歪みを正し、曇を取ることです。
世間的な表現をすれば「自分を取り戻す」ということになります。
絶望というものは、望みを持たないということです。
その時、「自分」を構成する全てとの関係性をひとまず切ることになります。
そして「現実」から離れます。
そしてさらに、現実が決めるのではなく、私が決めるという立場に立つことになります。
自然で強力でこの上ない確信と意図が生まれます。
それは他人を含めた外界の現象に左右されなくなるということです。
ただ絶望にはいくつか気をつけなければならない点があります。
それは他人の空間に導かれてはならないという点です。
「救ってもらおう」
そのような姿勢は、絶望に価値を与えるものではありません。
絶望に価値が生まれる時、それは本来の自分に帰る時です。
自然で強力でこの上ない確信と意図は、世の宗教が求める「信仰」などは必要ありません。信じるということは疑いがあるのに無理にそれを晴らそうとすることですが、本来の自分が持つ確信は、それそのものであるため自己欺瞞の要素はありません。
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なぜか十二月には憂鬱がやってきます。これは初めての経験ではありません。
ある憂鬱な十二月、僕は確かに一度サマセット・モーム氏の「月と六ペンス」に助けてもらったことがあります(本当の表現をすれば、僕が「月と六ペンス」というものを通して勝手に元通りに戻ったというだけの話になります)。
僕は小学生の終わり頃から、「それをこなしてどうする?」というようなことをずっと考えていました。
その「それ」とは何か?
それは生きること、生活することにまつわる全てです。つまり、生苦につながります。
そういうことを思ったのは、グチグチ言っている大人に出会った時からです。代表的なものは恩着せがましい人たちですね。
「じゃあやめればいいのに。それをこなしてどうするの?」
という感想しかありませんでした。
わかりやすいものは、「子どものために」などといいながら、ローン地獄になり仕事や家庭の愚痴を言っている人です。
「それを支えるためにやりたくもないことをやって、愚痴を言って何の楽しみもないなら、生きていても仕方ないじゃないか」
そんなことを小学六年生くらいの頃に思いました。
その前提があると、「生活を支えるため」に関連付けられやすい勉学なども「それをこなしてどうなるの?」ということになります。
そうなると直接的な身体的苦しみ以外のところに関して「何のために?」という感じになっていきます。
月と六ペンス風に言えば
「女は会計簿の内側に閉じ込めようとする」ということになります。
「会計簿の内側に閉じ込められて、で、何が嬉しいの?」という疑問は尽きません。
女性にしてみると、子と家庭の安定は「生きる喜びの最大のもの」になりやすいということになりますが、それが本当に男性にも当てはまるのでしょうか?
その空間に影響され、世間の倫理観に影響されて雁字搦めにされている状態は、一種の洗脳状態とも言えます。
子を思う気持ちがあったとしても、「会計簿の内側に閉じ込められること」が、生きる上での最適解なのでしょうか?
それは安全性が高いというだけで、最適であるとは限りません。
何より「その最適をこなしてどうするんだ?」ということです。
20代半ばの頃、コンパのようなものに行った時、「仮に彼が世界中を冒険して周ると言ったらどう思う?」と聞くと、「バカじゃないの?と思う」と答えた人がいました。
また、その人は「起業すると言い出したら?」と聞くと「何夢見てんの?って思う」と答えました。
バカはお前ね。
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つまり、― とりあえずは生きるのならば「誰か」や「何か」に依存するのはもちろん、主導権すら握られてはならないということです。
何かの空間に閉じ込められ、「なるべく省エネルギーでこなすこと」を意図して生をなまぬるく浪費するだけならば、生など苦痛でしかないということになります。
絶望は、自分の世界の主導権を自分が取り戻すことに繋がります。
何かに期待しているようでは、それはまだ絶望には達していません。
いっそのこと「頭を破壊すればいい」ということになります。
本当に絶望したなら、命がけで思考を破壊してみるというはどうでしょうか。
「できる」という確信になるように。
そして現実の現象には左右されないように。
傍から見ると狂人のように映るような根拠なき確信になるまで。
力強さと高い意志と共に。
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となると、「月と六ペンス」の主人公ストリックランドのモデルはポール・ゴーギャンですが、結局ニーチェのようでもあり、シッダールタのようでもあります。
それぞれ具体的な絶望の形は異なるでしょうが、それぞれが「絶望が、強い確信と高い意志という価値を生み出す」というプロセスを辿っていると感じたりもします。