経験や体験や、それらに関する思想や、さらにこれらの思想に関する夢などが、日々集積し、湧き出る― 測りがたい、魅力ある富である!それを眺めるとめまいがする。どうして心の貧しい人たちは幸いであると賞讃できるのか、わたしはもはや理解できない!― しかし私は、時々疲れたときに彼らをうらやむ。というのは、そのような富の管理は困難なことであり、その困難さがあらゆる幸福を押し潰すことは珍しくないからである。― そうだ、その富を眺めるだけで十分であるならなあ!われわれが自分の認識の守銭奴であるならなあ! 曙光 476
確かに半分本気で半分皮肉として、羨んだような経験があります。
昔から、自分は気になることが気にならない人を「楽そうでいいなぁ」と思っていました。
例えば、先の見えない答えの無いような疑問に関して、疑問とも思ったことのないようなタイプの人です。
そういう人は、例えば疑問を投げかけても、その疑問を疑問として取り扱わず、テレビ番組をただ眺めるかのように流してしまう、それが不可解でした。
例を挙げると、時間とは何なのか小学生の時から疑問でした。もっと小さい幼稚園児くらいの時は「時計の針を見てごらん」くらいで済ませられるような疑問ですが、○玉が本格的に覚醒を始める小学生の高学年くらいからはそんな子供だましでは通用しませんでした。
そんな中、どんな先生、どんな大人に質問しても、納得のいく回答をもたらしてはくれませんでした。
それどころか、「そんなことよりも来週から行く旅行のほうが楽しみ」というような人が多く、確かにそんな感じで過ごせれば、かなり楽だろうとは思いました。
成人してからもこの思考癖は治りません。
しかし、これは治すべきようなものではなく、旅行のほうが楽しみだという人を半分本気、半分皮肉で羨みながらも、死ぬまでに限界まで辿り着こうと思いました。
賢者予備軍の憂鬱
「哲学は人を幸せにしない」とはよく言われることですが、哲学はツールではありません。他の学問、例えば経済学やその中の金融理論などはどうやって幸福を増大させるかの人文科学的な一種のツールです。
役に立たないツールは捨ててしまえ、ということ自体は正しいのですが、それでモヤモヤが解消されるわけではありません。
おそらく気にならない人は一生気にならないのでしょう。
しかし気になる人は下手をすれば一生気になります。
そんな中「みんなで仲良く楽しく」を提案されても根本問題には何の影響ももたらしてはくれません。
そういった意識のズレが、シッダルタやサーリプッタタイプの人をどんどん憂鬱にさせていきます。
「人と仲良くやれないから憂鬱なのだ」と言うのは、どちらかというと群れる特性のある女性の感覚です。「絆」で涙が出来る人の感覚です。
話を聞いてくれて的確な回答を示してくれるような人であれば、問題はないのですが、聞いても何もできないのであれば、このタイプの人の憂鬱は加速します。
しかしこの憂鬱は悪いものではありません。憂鬱という感情は良いものではありませんが、それを何かの刺激で誤魔化そうとしてはいけません。
誰かどこかの哲学者や宗教家が何とかすべて納得のいく回答を持っているのではないかと思って、哲学を「勉強」すると、ただ勉強しただけになってしまいます。それだけでは解決はしません。
このタイプの人は、徹底的に思考の限界まで、自分の体感を頼りにしながら考えて、世の哲学を笑うくらいにならねばなりません。
「役に立たないツールは捨ててしまえ」という言葉だけを盲信してはいけません。
「役に立たないツール」かどうかの判断の基準は「幸福」について役に立つか立たないかあたりになるでしょう。
しかし、その前提問題の「幸福」が何なのかという問い領域です。
抽象度があべこべになっています。
根本問題について考えることが、根本問題の役に立つのか立たないのか、という変な議論になっています。
精神の収穫祭にて 曙光 476
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