それが実在するものでなくとも、実在するかのように働くことが迷妄の要因の一つとなっています。
本来は「有るような、でも、無いようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの結果をもたらしたりします。
あくまで五蘊により捉えたものとしての対象であり、本質的には有と無を統合した概念である「空」としての性質を持つものであっても、観念の領域では有としての前提が生じるために機能が生まれ、機能に応じた結果が生じることになります。
それは実在するものであるのかはわからないものであっても、「ある」と仮定すれば何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出るということになります。
しかしながら、そうした結果、効用のようなものを根拠に、前提となった仮定対象を「実在するもの」とすることはできないというところが見落とされていたりします。
そういうわけなので、これは「不可知と人格神を結ぶ誤謬」の元となる無明であり、宗教的な迷いの最たる要因となっているものになります。
架空のものがまるであるかのように機能する例
イメージを掴むためにホラ吹きの詐欺師で例を見てみましょう。
大ホラ吹きの詐欺師が、相手の信用を獲得するため「自分はどこそこの有名大学出身である」と学歴詐称をしていたとします。
実際には出身でもなんでも無いのですが、「ほう、そうなのか」と思った人としては、それに応じた評価をその詐欺師に与えてしまいます。
そして評価を獲得した詐欺師は評価を通じて信用も獲得し、詐欺を成功させます。
別の例でいうと、結婚詐欺師が本来は無職ながら「一級建築士として設計事務所を営んでいる」と自己紹介したとしましょう。
その話を聞いて「この人いいかも」と身を寄せるのであれば、それが嘘であってもひとまずその場では「お近づき」という現象が起こったりします。そして気持ちの上では「こんな人と出会えて嬉しい」ということが起こっていたりもするでしょう。
これが「架空のものであっても、まるであるかのように機能する例」です。
その奥には、「有名大学出身であることを評価基準にする」といったものや「一級建築士で設計事務所を経営しているなら安心」という観念、判断基準を騙される側の人が持っているということも必要になりますが、一番の問題は、それが「ホラ」であっても評価や信用獲得という面においてしっかりと機能してしまっていることです。
もちろん現実にはそれが本当のことであるかという確認作業によって蓋然性を高めるということなどが行われたりしますが、「本当かどうかいちいち確認することが気まずい」という心理などが働き、自己申告のままを受け入れるということをしてしまう人にとっては、それが嘘であっても本当のことかのように働いてしまうという感じです。
宗教方式の安らぎ
こうした構造は「宗教方式の安らぎ」の構造と全く同じです。
神という概念や宗教化した仏教における如来や菩薩といった「実際には実在が確認できないような何かしらの上位の存在」というものも、それをどう捉えるかという観念の状態によって、様々な働きを生み出すということが実際に起ったりします。
すなわちこれは、実在の証明は認知や論理上の不可能性から、良く言って(自己の内側で自己の無矛盾を証明できないという不完全性を持ち出さないにしても)「不可知」という領域になるはずです。しかしそうであっても、信仰という作業によって実際に何かしらの安心感のような働きが生まれるという感じになります。
しかし、「信仰という作業」と「安心感という体感」を元に、論理を逆流させて実在の証明とすることはできません。主観的経験としてのものであるだけであり、客観的実在を証明できるものではないはずです。
そうした概念や観念すら意識、情報として五蘊によりその場で形成され消滅する性質を持つものとなっています。
すなわち、哲学領域というより実際は「その場の主観」くらいしか証明の必要がない事実として捉えることができないということになりますし、客観性というもの自体が社会的領域では有効性があっても本来は証明し得ないということになり、かつ、そうした主観経験は諸行無常ゆえにすぐに変化を起こします。
不可知と「神」や「人格神」を結ぶ誤謬
そういうわけなので、百歩譲って不可知である領域である対象の実在が「空」として捉えたとして、その仮定により安心感などの働きが生じるというところは機能構造として法則性が見出だせます。
しかし、だからといってそうした宗教方式の「利用」の際に用いられる様々な概念の正しさを証明することはできませんし、言語的に示された「神」や「人格神」の実在の証明もできません。
感情的な働きを根拠に関連付けを行い、感情的働きの再現性から人格神の実在を絶対とすることは論理の上で破綻をしています。
端的には、何かしら人格神を肯定しようと思い、事実絶対のことではないから信仰により疑念を払拭し、結果、信じたことによって安らぎが生まれた、だから人格神はいるのだということは、論理がつながっていないということになります。
しかし、主観体験としてはそうした経験として現実に起こっています。
なので「主観としての体験として再現性を持ちたい」という感情的意図から、人格神の肯定を信仰により支え続けなければならない、ということになり、本来それは「空的な虚像」であっても執著の対象となってしまうということになります。
「主観体験として安らぎがあるのであればそれでいいではないか?」ということにもなりそうですが、観念への執著があると、その観念に沿わないものに対する怒りが生じ、結果別のところで苦しみが生じます。
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五感と意識という間口の違いはありますが、それがどのチャネルから得た情報かはバラバラであっても、すべての情報は情報でしかありません。
そしてそれらは組み合わされ、何かしらの状態として形成され、また消滅するという構造になっています。
「空」でありながら実在するかのように働く機能があるとしても、それらに執著すると欲や怒りの要因となり、結局は精神としての無駄な苦しみを得てしまうことになります。
「精神としての無駄な苦しみ」を得ないということに関して、不完全性を持つ観念については、より一層の執著を生み出し、無明の中に縛り付けるものとして捉える事ができます。
仮定から始まり、「仮定が仮定であり、架空のものは架空のものであった」とオチが明かされるのであれば「プロセス」であると許容することができるかもしれません。
しかしながら、妄想が加速し自我が暴走する危険性を孕んでいるため、あまり良い方法とは思えません。
「あるような、ないようなもの」である「空」でありながら、実際にはそれが実在するかのように働く機能があり、それが実際に何かしらの感情的結果をもたらしているからといって、そうした観念を絶対化するということはできませんし、絶対視することは別の苦しみを生み出すという感じになります。
そして、宗教系で言えば異教徒の教義のように、「同様の構造を持ったものは、同じような機能を持っている」ということから、何かしらの宗教教義が排他性を持ちながら唯一絶対に正しいということにもなりません。
そしてそれらは「ホラ吹きの嘘が本当に機能する」ということと同じであるということと何ら変わりないということがわかれば、「迷える者たちがただ彷徨っているだけである」という感じで慈悲の心持ちでいることができるようになるでしょう。
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