「墓場ビジネスと霊感商法」などで触れていますが、墓自体はただのビジネスであり、墓参りという文化そのものが、文化という名のマインドコントロールであると思っています。
そんな中、母に頼まれて母方の先祖の墓に花を添えに行くということをこの夏経験しました。
その時に最も感じたのは憂いです。花に対しての憐憫です。
生きている花たちが、もう既にいない死者のために、もっと言えば宗教という狂気やそこから派生した習慣のために、なぜ劣悪な環境に晒されに行かねばならないのか、という憂いです。
人がその感情のために、―狂人的思考の結果思いついた行動によって、今現に生きている植物を生贄というような形で殺さしめるのはやはり道理違いではないか、というようなことをヒシヒシと感じました。
もちろん世間一般の感覚からすれば、おかしいのは僕の方でしょう。
「たかだか花を墓に添えに行くのに、何を感傷的になる必要があるのか?」と。
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今回、母の代わりに墓参りに行ったのは、入院中の母に頼まれたからという理由でした。
普段なら確実に断っていたどころか説教をするくらいかもしれません。
しかし、入院中の意識的な気がかりを少しでも軽減しようと思い代わりに墓参りに行ったという感じです。
ただやはり、花々を抱えた時「生きているのはこの花々なのだ」と感じました。
なぜ今生きている彼らが、既に生きていない人たちのために、今から猛暑の劣悪な環境に晒され、枯らされに行かねばならないのか、それをずっと考えながら墓まで向かいました。
宗教屋は「仏は一切衆生を救う」などとよく妄言を言っていますが、それはあくまで人間に限定した考えなのだ、ということなのだろうと思いました。
花を添えに行く人間を称賛し、花を殺さしめているとしか考えられないからです。
花々は目の前で今生きているのに、狂人の文化のために殺されに行くのだ、ということです。
食べるためでもなく、住むためでもなく、ただ己の狂った心を落ち着かせるために花々を犠牲にするという構造になっています。
猛暑の中、わずかばかりの水を用意されながら、ただ刻まれた石の横に置かれるだけ、それには何の意味もありません。
屍の上に苗を植えるくらいなら良いですが、花を添えるという文化、そしてそれを称賛するかのような文化に違和感を感じました。
花々とさよならをする時、僕はほのかに憐憫に包まれました。
「その命が尽きるまでどうかお元気で」とでもいえば、それは皮肉にすらなりえます。仮に苗木であればそれは皮肉ともならないのにです。
いくら頼まれごととはいえ、おそらくもう二度とこのようなことをすることはないでしょう。
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