目的か?意志か?

たまに「今 集中」なんてなキーワードでサイト内検索が盛り上がっていることがあるようですので、今に集中するということについて書いていきましょう。

もちろん、「今やっていることに集中しろ」というような、義務教育的なお話ではなくて、今この瞬間に意識を集中させるというようなものです。

今に集中する場合、意識の集中のレベルによって、体感にも段階がありますが、途中で変な体感がやってきても、「今そんな変な体感があるだけだ」と考えてください。

でないと、あとで変な宗教にハマってしまうかもしれないからです。

全ての思考と感情をストップさせて
今に集中してみましょう

さて、今に集中するとか、今現在に集中するということについてですが、とにかく過去からの連続性や未来への繋がりなどがまったく無くなるレベルにまで、今に意識を向けてみてください。

全ての思考と感情をストップさせるような感じです。

慣れないうちは目を閉じて、上瞼の裏側を見つめるようにして眼球を固定するといった感じで始めてみてもいいかもしれません。

たぶん本当に今に集中できたら、じわーっとした感じになるはずです。さらに集中力が上がると、上下左右の感覚なんかもなくなっていきます。

さらに進むと、完全に外界との分離という感覚がなくなります。そしてさらに進むと、そんな感覚を体感していることすら体感しなくなるという状態になります。

そして最終段階になると、何もない状態になります。何もない状態を体感していることすらなく、もとに戻るということもありません。だからスタート前に戻ることを予約しておく必要があるとされています。こうして達磨大師は達磨になってしまいました。

ただし、これでも、ただ何もない状態を経験したに過ぎません。経験しないよりはいいですが、だからどうなるということでもありません。

瞬間的に消えてなくなっている

次に少し集中力を通常に近いくらいに戻しながら、今目の間で起こっている現象、というか状態が、瞬間的に消えてなくなっているということに意識を向けながら今に集中してみましょう。

それは、思考でもいいですし、何かの作業をしながら指先の感覚が瞬間的になくなっては現れ、という感じで一定の状態にないことを確認しながら、「起こったこと」をその瞬間に置いていってください。置き去りにしていくという感じです。ひとまず思考でも感情でも感覚でも構いません。

「うまくできているだろうか?」は誰の声?

この時

「うまくできているだろうか?」

という声がしてくるかもしれません。

さて、それは誰の意見でしょうか?

誰が「うまくできている」のかを誰が確認しようとしているでしょうか?

その正体がアイツです。

連続性を持たせていているだけ

今をひとつに切り取れば、ひとつの静的な状態です。

それに連続性を持たせていているだけだということが何となく分かるかもしれません。

それがわかれば、時間に対する概念が変わっていくでしょう。

そうして、今この瞬間に集中して、じわーっとした安心感しかない「今、何も起こっていない」という状態を何となくつかんだあと、「では、この現象の移り変わりは一体どうやって起こっているのかなぁ?」

なんてなことに思いを馳せても面白いかもしれません。

頭で「因」だと思っていることは、
実は「縁」

頭で考えて起こした行動も、まず、「頭で考える」というか「思いついた」というのが因果関係としては必要なはずです。

ではその因はどこからやってきたのでしょうか?

因は自分の頭で考えたことなのでしょうか?

因だと思っていることは、実は条件(厳密には少し違いますが)である「縁」ではないでしょうか?

何かの衝動があって、それを形にするための方法論を頭が考えただけで、前提知識も前提条件ですし、思考活動自体も、ただの縁としての自動的な現象だったらどうしますか?

まあこれ以上のことは体感でご経験ください。

すべてがフルオートマだということが当然だとわかるはずです。

目的か?意志か? 曙光 130

今・現在に意識を集中する

今・現在に意識を集中することについては、以下のページにまとめてあります。

「今」に集中することと今をスタートとすること

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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