発想の種子の、登場のしてきかたのさりげなさ

どのような表現にしてもその人の内にあるものしか外には出てこないため、どんな組み合わせになるにしても発想の種子に関してもできるだけ多いほうが面白みが増していきます。そんな発想の種子の登場のしてきかたはいつもさりげなく、遠い昔にちらっと見ただけというようなものですら、何の脈略もなくある時ふと何かの起点となったりします。

そういえば、近年「英語教育をなるべく若いうちから」というような流れになってきているようですが、発想にしても思考実験にしても結局は母語たる言語で行うので、それより先に国語の方に力を入れたほうがいいのではないかと思うことがあります。

母語による思考

バイリンガルに憧れるというのはいいですが、下手に同等に2つの言語を使うと、それぞれの言語における思考が浅くなる、というようなことが起こる気がしています。

毎度のことながらになりますが、「英語だけが得意な人」は、結局その他学力が低いという印象を受けています。

それは思考鍛錬において、母語の語彙は増えず、他の言語の方に意識が持っていかれているので、「母語による思考」が浅くなるというところから来ていると思っています。

いくらたくさんの言語を扱えるとしても、基本的な思考は母語で行います。その母語がしっかりしていないと、思考もしっかりしないという感じになるのでしょう。

人によっては、海外で勉強していたり仕事をしていたりして、ある専門分野については思考が現地語になっているという場合もあると思いますが、根本人格に関する面やその他一般的な思考においては母語を用いるはずです。

まあこの母語というのは、一番身近な人達から受け継ぐ言語であり、より厳密に言えば日本人ならば日本語というより、方言が最深部に核として根付くということになるのでしょう。

関西弁、特に京都弁のイントネーションの豊富さ

そういえば関西弁、特に京都弁は、日本語の中でイントネーションパターンが一番多く、後から習得するということが極めて難しい方言ということになるようです。

確かに京都弁から標準語は簡単ですが、その逆は難しく、地の京都人かどうかは言葉ですぐにわかったりしますし、何十年と住んでいる人でも流暢な京都弁を話しているという人は見たことがありません。

外来語の影響でイントネーションパターンが豊富に

なお、日本語の中で関西弁、特に京都弁がイントネーション豊富な点については、いわば古くから都であり、渡来人が持ち込む新技術や学問等々の影響より、外来語がやってきやすい場所だったからということのようです。

全く新しい分野の用語は、旧来からある語に同等の概念のものがないため外来語のまま発音されたりすることが多く、そうした新しい語のイントネーションが元の語と組み合わさったりして多様化していったと考えられています。

亜種的なタネ

それが発想の種子とどう関係があるのかということになりますが、そうした母語としての方言を大事にしていると、単に言葉の意味示すところのみならず、ことばのニュアンス自体がひとつの細かな概念の差になるので、発想においても極めて亜種的なタネになるのではないか、という感じがしています。

「またやってるよ」、「またやっとるわ」、「またやってはるわ」、「またやってはりますわ」ということばの違いで、客観的事実の呈示から主観的皮肉要素まで、多種多様な表現をすることができます。

こうした点は母語の操作でないと難しく、確かに英語でもニュアンスの違いというものは出せますが、第二言語として「英語だけが得意」という場合は、意味が通じればいいという感じで意訳が基本になっているので、思考の上でもニュアンスを無視しがちです。

そうしたニュアンスの違いに無頓着ということは、感情の読み解きや思考という精神活動においても杜撰になりうるのではないかと思っています。

もちろん母語が英語ならば英語でその違いを理解し作ることもできるでしょうし、緻密な思考をすることもできるはずです。

ということで、そうした母語の語彙について単に概念としての名詞などを増やすというだけでなく「方言を含め基礎となる母語を大事にする」というのが先だと思っています。

と、こんなことをテーマにした事自体が、他の地方の人が発する「京都の老舗の名前の発音が変」というところから来ています。

そうした固有名詞を日本語として標準語的に発音することも可能ですが、ある種地のことばなので、標準語読みされると変な感じがします。

意味は伝わるものの、それ以外のものまで伝わってしまうという面白さです。

笑う月(一覧)

Category:笑う月

「発想の種子の、登場のしてきかたのさりげなさ」への2件のフィードバック

  1. 方言は奥深くに根付きますね。 私は、人生のうち、社会人になるまでは関西圏、それ以降は別の地方に移り、もう、地方のほうが長いですが、言葉の基本は、関西弁であり、家では家族以外は関西弁ではないので、私は、その地方の方言と関西弁のハイブリットな方言、会社では、その地方の方言と、関西弁と、標準語の3つが混じった、言葉とイントネーションを発しています。

    しかし、基本が関西弁なのか、感情が高ぶったときに発する言葉、頭の中の思考の言語は関西弁となります。

    特に変えれないというか、変えると違和感、気持ち悪さを感じるのがイントネーションで、よく、家族から、今のイントネーションおかしい!と指摘されます。

    関西とそれ以外で、イントネーションが異なる代表例は、“どらえもん” “かなぶん” “かまきり” “雨” ・・・ たくさんありますが、最近ニュースを見ていて標準語にびっくりしたのが “姫路” そして、新しい言葉でいうと、関西ではどう発音するんだろうと思う “PAYPAY”
    店で 私が初めて“PAYPAYで”と言ったとき、隣にいた子供が噴き出しました。

    平社員の意味の“ペーペー”のイントネーションだったようで、さすがに、自分でもこれはおかしいなと思い、それから、修正しました。

    関西圏でも、場所によって、語尾もイントネーションもかなり違いますよね。言葉を聞くと、だいたい、関西のどのあたり出身かわかります。

    私は、やはり、地元が同じダウンタウンが、小学校のときから、しゃべってきた言葉と同じで、一番、しっくりきます。 

    1. 口語だけではなく文語が使われることも多いですが、やはり考えの基本は母語になり、とりわけ対象が思考的なものではなく感情よりのものになった場合は方言を使用するという形になると思います。
      そうした中、社会的な要請により方言を制限されるということは、それだけ根本人格が奥に追いやられ、仮面が強まるということにもなります。
      京都以外ではどうなのかは知りませんが、排他的傾向がある京都において差が生まれないようにと、一部の幼児教育の現場では標準語を使用するということがなされていたようです。疎外感を軽減するというような大人の都合としての配慮のようなもののようですが、逆に混乱が生じて人格が歪むのではないかと思ったりもします。
      一番しっくりくることばが、一番リラックスして本領を発揮できる言葉であり、その人の素を感じられるので一番良いと思います。

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