「ダメなポイントがなければ、許可してください」というトンチンカンなことを言う人がいます。もっとわかりやすく言えば「嫌いじゃないなら付き合ってよ」というものですが、いままで散々「無理矢理捻出された断り文句」を聴き慣れているせいでしょうか、「ノーの反対はイエス」ということを押し付けてこようとしてきます。
この手は胡散臭い訪問販売やキャッチセールスにありがちですが、ノー要因がなくても即時にイエスとは限りません。
マルチネットワーク系なら特にわかりやすい構図だと思います。
「とにかく登録は無料だから」というような謳い文句で勧誘してきますが、時間というものと少なからずの労力というものを無視しています。
その程度で「ビジネス」というには甚だおかしいですね。
「無理なもんは無理」
「なんでですか?どこかにおかしな点はありますか?」
「こんなのやってたら恥ずかしいよ」
「アメリカで優れたビジネスに贈られる○○アワードをもらったビジネスモデルです」
という権威付けで跳ね返そうとしてきますが、黙って去りましょう。
静かなること木鶏の如し
「望之似木鶏」で有名ですが、荘子という人が「木鶏っぽくいってみよう」というようなことを言っていました。
すごく簡単に考えてみると、相手はこちらが反応するから、反応してきます。また、相手が「いる」と思うのでこちらも感情が動きます。
怒っている人は相手にしてはいけません。
相手にすると「矛先」ができてしまいます。最初は矛先を向けてきますが、暖簾に腕押しだと自発的に折れてくれます。
相手が脅してくるならこちらも応戦してやろう、というのでは相手ももっと闘争心を燃やしてきます。また、「怒っているようなだから、宥めてあげよう」というのは一見良いような行動に見えますが、相手をもっと苦しめます。そして自分も苦しんでしまいます。
自分を攻撃してくる相手にとって一番恐ろしいのは、矛先を向けられても眉一つ動かさないような態度です。
なんとか乗り越えられる恐怖を通り越して、乗り越えられない諦めの境地に立ってくれます。
誰の何かは忘れましたが喩えで、「有人の船が自分の船にあたってくる」場合と「無人の船が自分の船にあたってくる」場合を考えてみよう、というものがありました。
衝撃度合いは変わりません。ただ、感情の振れ幅は変わるでしょう。
どうして変わってしまうのでしょうか。一つは相手に攻撃されたと思ってしまうこと。もう一つは怒る矛先があることです。
無益でトンチンカンな議論や闘争など、早急におさらばして、自分がやりたいことだけをしてみてはいかがでしょうか。
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