涅槃寂静

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)について触れていきます。涅槃寂静はもちろん仏教用語ですが、仏教の根幹でありながら最も意味がわからないものであると思います。なぜならいくらわかりやすく書こうと思っても、涅槃寂静は「理解するもの」ではないからです。

涅槃寂静とは、「悟り」と呼ばれるような仏教の目的であり到達地点です。しかしそれが何かということを示すことはできません。

諸行無常諸法無我一切行苦ついては、哲学テーマとして書いてみましたが、涅槃寂静について触れていなかったのは、言語で書いて頭で理解できるようなものではないからというのが本当のところです。

しかしながら、涅槃寂静という言葉が独り歩きし「涅槃とは死ぬことである」とか「死ねば涅槃に入る」などと意味不明なことを言っている人達もいるようですので、一応書ける範囲で書いてみようと思ったしだいです。

おそらくそうした人たちは涅槃寂静を知ることができるものだと思っていて、検討できる範囲で考えてみた結果、「涅槃とは死後のことではないか?」と妄想しているにすぎません。

そうした人たちの涅槃に対する概念が独り歩きして自我が暴走すれば、「涅槃に入るために死ぬ」という人達が出てきてしまうかもしれません。

しかし残念ですが、涅槃ではないまま死ねば涅槃寂静であることは叶いません。

そういうわけなので、本来は書くようなことではありませんが、そうした涅槃や涅槃寂静について書いていこうと思います。

どちらかというと「涅槃寂静とは何か?」ということを示すと言うよりも「何が涅槃寂静ではないか?」ということを中心に書いていきます。

なぜ涅槃寂静を「知ること」はできないのか?

ではまず、「なぜ、涅槃寂静を知ることはできないのか?」というところから始めてみましょう。

涅槃はあくまで当て字であり、nirvana(パーリ語:nibbāna、サンスクリット語:nirvāṇa)からきている言葉なので、漢字に意味はありません。

さて、言語による理解ができないというのは一体どういうことなのでしょうか?

それは例えるなら、みかんを食べたことのない人に、それに類するものを一切食べた経験のない人に、文章でみかんの味を伝えることに似ています。また、絵を描くことができない状態で、言葉のみで全く例えようのない誰かの顔を説明するようなものです。

涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。

というような説明があったとしましょう。

ポジティブな表現をすれば「最高の安穏」であり、ネガティブ面から表現すれば「煩悩の火が消えた、一切の苦しみのない境地」という程度です。しかしそれが何かを示しはしていません。

それは何となく「安らぎの境地なんだろうなぁ」という印象くらいはもたらすことができますが、涅槃寂静自体を何も示していません。

涅槃寂静はその状態を経験したものにしかわかりません。

そういうわけなので、涅槃寂静を説明したとしても、涅槃寂静にあるものにしかわからないのです。

語ったことは語ったことであって、それを完全に示したものではなく、示しえないものは示しえないという感じで捉えておきましょう。

しかし、示しえないということすら、涅槃寂静にあるものしかわかりません。

そういうわけなので、涅槃寂静は妄想の対象になっていきます。

しかし涅槃や涅槃寂静というものを示すことはできませんが、「涅槃や涅槃寂静でないもの」を示すことはできます。それが何かを示すことはできなくても消去法で示すことくらいはできます。

ということで、涅槃や涅槃寂静ではないものを示していきましょう。

「死ねば涅槃に入る」は「宗教」の発想

「死ねば涅槃に入る」は「宗教」の発想ということで、まず本来の仏教というものと日本において捉えられている仏教的な宗教との違いを示しておきましょう。

涅槃寂静は仏教の最高目的という感じになりますが、それを宗教的に「死後」とするウルトラC解釈が行われていたりします。

あまり言葉として涅槃寂静を語ると、そのような思考が働いたり、言葉にとらわれて涅槃寂静に至ることが阻害されてしまうということが起こります。

だから本来、涅槃寂静については語らないほうがいいという感じですが、意味不明な解釈や定義を元に、自我の暴走が起こるということは避けていかねばなりませんので、宗教的な定義を壊していこうと思います。

宗教とは何なのか?

では、まず「宗教とは何なのか?」ということについて考えてみましょう。

それは、大まかには「自分」という概念と、「自分より上位の存在」という概念がまずあり、何かを信じるとか、何某かのことすればとか、そうした条件をつけながら「上位の存在が自分を良くしてくれる」という構造を持っているものです。

頭では理解できない事柄を妄想で埋め、本能から起こる恐怖心を妄想で紛らわせるという程度のものです。

そうして上位の存在として権威がないとマズいと思う人達が、スッタニパータの翻訳にあたった中村元氏に「そんな訳だと威厳が無くなる」とか言ってみたり、現代でも日本語で語らず意味不明な漢文を唱えているという感じになります。

しかし本来仏教にそうした構造はありません。もし仏教がそうしたものであると思う人がいるならば、それは「仏教のエッセンスを含んで宗教化した何か」です。

「ブッダという最高の存在がいて、その存在の直下に自分がいて、みんなはその下にいる」というような発想が宗教です。

「如来という最高の存在がいて、その存在に適えば自分は救われる」というような発想が宗教です。

概念への執著

そういうと「私の知っている仏教はそうではない」というようなことを言う人達も出てきます。特に墓場利権を守るのに必死な人たちでしょう。それは自我の働きであり、それこそがまさに本人を苦しめる執著です。

しかし、そうした概念への執著、そして宗教的な利権や構造に執著するのならば、それは涅槃にはありません。

ただ、そういう人たちがいたとして「それを糾さなければならない」ということすら思いません。

なぜなら、誰かを説得して納得してもらう必要など無いからです。仏教という概念に対する執著すらありませんから、別に仏教ではないと言われても何の問題もないのです。

ただ、そうした人たちが「涅槃とは死後のことである」ということを言うと「今すぐ安らぎに入りたいので死にます」という発想をする人達が出てきます。なので、それは違うということを言っておきます。

なぜなら、そうしたものが涅槃が語り得ぬことであることを理解すらできない人たちが、「一度も死んでいない」にもかかわらず、死後を知っているかのような論調で妄想しているにすぎないからです。

涅槃にない者が説く妄想

そういうわけで、そうした発想自体が涅槃にない者が説く妄想にしかすぎません。

結局宗教の構造は、上位の存在などを想起させて「我を手放す」という感覚をもたらすことで、つかの間の安心感をもたらす程度のものです。

いわば宗教的な妄想を使って、普段の妄想から起こる衝動を一時的に打ち消すという程度にしかすぎません。

その一時的な打ち消しによる安らぎを涅槃と呼んだり、悟りと呼んだり、解脱と呼ぶのも違いますし「死んだら苦しみから解放されるから涅槃だ」と考えるのも、一度も死んでいないものが想像で説く妄想にしかすぎないのです。

どうせなら、宗教的な妄想によって普段の妄想を打ち消した後、「はい、全て迷いであり、幻ですよ。何となくわかった?」というふうにするくらいならまだいいですが、我こそは神に近い存在だとか、他の人とは違うのだ、などという妄想を加速させるようなものは全てカルト宗教です。

涅槃寂静に関しても「あれこれ迷って辛いことがあっても、死ねば涅槃に入れるのだから安心しなさい」という一時的な慰みという程度です。

しかし、何かを唱えていればとか、信じていればとか、そうしたことでは涅槃寂静にたどり着くことはありません。

涅槃に至る道については、原始仏教の頃から、その方法論は幾度となく説かれていますが、それを言語で定式化しようとする人たちが思考の罠にハマってしまったり、地域をまたぐ時に土着の信仰を持つ人達に合わせて語られたことが、あたかも字義的にそのままの意味であるかのように捉えられていった結果、宗教となったという感じになるのでしょう。

大般涅槃経以降、涅槃寂静を単にシッダルタこと釈迦の死に限定したものだという考えもありますが、それは明らかに宗教的な神格化のための曲解です。

阿羅漢として、目覚めた人ブッダとしての人たちであれば、サーリプッタもモッガラーナも、コンダンニャもアッサジもブッダです。なお釈迦族ということであれば、ラーフラもアナンダも釈迦族なので「釈迦」という表現も変だということになります。

最初に目覚めたという意味ではシッダルタですが、目覚めた人はたくさんいたということになります。それはその時代にもそれより後にもたくさんです。

不生不滅であり生存本能が滅し一切の執著が無い、神さまのような存在としてですら存在していないということになるはずですが、どうしても神格化して宗教的に考えようとする人たちがいます。

しかし、こうした議論には興味がありません。

なぜなら「誰より知っている」とか「誰よりも正しい」ということと涅槃寂静は関係がないからです。

例えば何かの世界的権威を言い負かせば涅槃寂静に至るのかと言われれば、それはナンセンスだということしか言えません。

「そういうことではない」

という感じで次元が違うのです。

別にそれが原始仏教であるからとか、そうではないからということで変わり得ぬ次元です。諸行無常が、宗教の領域を超え、主義や思想の次元を超えた理であるように、涅槃寂静も誰が何と言おうと変わることはないのだから、騒ぐ人たちの妄想などに付き合う必要はないという感じです。

そうした個々の概念ですらただの言語のラベリングであり、何かの印象に対して言葉を当てはめているにしかすぎません。

問題はそんなところにはなく、他の何でもない「この心が安穏であるためには」という方向性で捉えねばなりません。

なぜなら社会の中で何がどうあろうが、この心が受け取るものが全てだからです。

涅槃と解脱の概念の違い

さて、涅槃は「解脱」と呼ばれたり、悟りや覚りと呼ばれたりしますが、ここでは念の為涅槃と解脱の概念の違いについて触れておきます。

なぜなら、解脱という言葉は誤解を生むことがあるからです。

一応、涅槃はニルバーナ・ニルヴァーナ(nirvana)という感じになっていますが、そうした概念自体は、元々バラモン文化の中にあり、ヒンドゥー教やジャイナ教などにおいて輪廻を超えるものとして「解脱」という概念で示されていたようなものです。

しかし仏教上では、涅槃は、最高の安らぎという曖昧な形でしか語られていません。不生不滅であり、「生み出さないから苦しみがなく、生み出さないから滅することもない」という感じの状態です。バラモン文化の中にあって、イメージしやすいようにとニルバーナ(nirvana)という概念を用いたという感じですが、仏教上の涅槃はそれらと根本的に全く異なる属性を持っています。

解脱という言葉は誤解を生む

カルト宗教などでは、解脱という言葉を使いますが、その言葉を使って説いている内容をよくよく検討してみると、「我」が「解脱する」という構造になっているはずです。

もし解脱ということが、涅槃であるのならば、我という概念がないはずです。

諸法無我を捉えればわかるように「我」という発想自体が、根本的に解脱とは矛盾するという感じです。

バラモン文化における「真我」が解脱するという発想

これはどちらかというと、便宜的にバラモン教と呼ばれるようなバラモン文化やそれから派生したヒンドゥー教、ジャイナ教の発想です。

本当の自分とでも言いたげな、魂、スピリット、真我、アートマンという固定的な自分があって、それが宇宙の根本であるブラフマンと一体化することで、この世界から解脱するという発想です。

胡散臭い瞑想で自我の感覚が弱まったことを「真我を発見した」とか「真我が宇宙と一体化した」というようなことを言う人がいますが、それらは悟りでも涅槃でも何でもありません。

涅槃寂静とは、そうした分離しているものが一体化するというものではありません。

「分離している」というのが「錯覚である」ということが嫌でもわかるという感じです。

空が涅槃寂静というわけではない

よく空が理解できれば悟れるとか、涅槃に入れるということを言う人がいますが、空の理解など簡単であり、空を理解したところで涅槃寂静ではありません。

何か「空」という概念に多大なる期待を寄せているという感がしますが、有と無を抽象化した概念という程度です。

空という必殺技を持てば、一気に涅槃寂静になるというような発想ですが、一切が空であるなど、そんな事は当たり前であり、その後に「で?」と思ってみたりしなければなりません。

しかし、実際は、空を理解し考えたところで涅槃には至りません。

諸行無常を頭で理解しただけで涅槃寂静に到れるのであれば、誰でもすぐにそうなるはずです。それと同じことです。

色即是空は論理が成り立ちますが、空即是色は論理が成り立ちません。ということで、少なくとも般若心経はズレているということくらいは見切りましょう。

それを単なる「ありがたいお経」という感じで呪文扱いするようなことがないようにしましょう。それは迷いですから、最低限それくらいは論理で乗り越えて下さい。

西洋哲学で理解できる範囲

おそらく西洋哲学的な思考の方法でも、空や諸行無常などを理解することは可能です。そしてそれが哲学として覆せないほどの完全性を持っているということも理解できるはずです。

しかしながら、西洋哲学としてのやり方で理解できる範囲は、思考上の理解の範囲であり「そういう考え方もある」という程度の感想を持つのがせいぜいです。

此岸と彼岸

宗教化した発想や西洋的な思考方法では、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)、つまり此の岸と彼方の岸という概念を、この世・現世とあの世・来世という程度の捉え方をしてしまいますが、此岸と彼岸というコントラストは、そうしたものではありません。

此岸とはこの世・現世のことであり、彼岸とはあの世や来世のことであるという考え方をしてしまうということは、確実にこの世界を歪んで観ている証拠であり、ありのままの世界を観たことがない人の感想です。

此岸と彼岸というラベリングは、この現実をどの立場、立ち位置、視点から観ているかということにしかすぎません。

全くレベルは落ちてしまいますが、此岸と彼岸のコントラストを捉えるとすれば、例えば「当事者目線と傍観者目線の違い」という感覚で捉えてみても良いでしょう。

此の岸から観るのか、彼方の岸から観るのかという違いだけであり、共に「今現在」の心のあり方の違いくらいにしかすぎないのです。

「対岸の火事」という言葉があるにもかかわらず、「彼岸とは死後の世界のことである」と言っているのは何故でしょうか?

それは迷いであり、迷妄であり、それこそが此岸からの景色だということになります。

悟りの概念に執著を持つのであれば悟りではない

最後に「悟りの概念に執著を持つのであれば悟りではない」というところをもって、ひとまず涅槃寂静について語るの終わりにしましょう。

まあそれが本来の涅槃寂静たるものでなくとも、「私は悟りを知っている」とか「私は既に涅槃の中にいる」という程度ならまだそれほど害はありませんが、「私の悟りのほうが正しい」とか「私こそが涅槃にいるものであるのだから崇めろ」とか「悟ったものであるのだから誰よりも偉い」などと思うのであれば、完全に涅槃寂静ではありませんので絶望して下さい。

といっても「私は悟りを知っているとか」「私は既に涅槃の中にいる」というものですら、「私」というものへの執著があります。

涅槃寂静は、そうした次元ではありません。

恐怖心と競争と執著

なぜ最高の目的が涅槃寂静なのかということについてですが、まず最初に涅槃寂静とは「誰かよりも偉い」とかそういう次元のものではありません。

全ての煩い、煩悩は外界から起こっていることではなく「この心の汚れがもたらしている」という点に注意しましょう。

誰かよりも偉くなればとか、誰かよりも頭が良くなればとか、顔が良くなればとか、果ては超能力を得ることができればと言うようなものは全て恐怖心から起こっています。

そして恐怖心の克服にと競争に有利なものばかりに関心が向いていたりします。

例えば「マインドフルネス」などという言葉を使い、それで目的としていることは何でしょうか?

疲れが取れるとか思考がよく働くということという一見問題がなさそうな感がありますが、実はその奥に「生産性向上」という目線がどこかにあるような感じがします。結局誰かよりも強くならなければならないという恐怖心が奥に垣間見れます。

「私が安心したい」が起こすパラドクス

それらは端的にはこの私、この生命への執著です。

「私が安心したい」

という発想です。

これは他人をさておいて私だけが安心したいというエゴイズムのようなものだけを指すのではありません。

他人のことを考えているから「偉い」とか「自分のことだけを考えているなんて…」というようなちっぽけな領域のことではありません。

では反対に他人のことを考えていればいいのか、たくさんの人を幸せにすればそれで良いのかということになりますが、そうした発想はナンセンスです。

なぜなら、いくら他人が幸せになろうが、他人を通じてやってくる幸せも自分の内側で受け取るものであり、結局自分の幸せであるためです。

ここで本末転倒になっているのが、「私が安心したい」という我への執著が、結局いつまでも安心をもたらすことができない原因になっているということです。

「私が安心するために」といって様々な条件がついていくと、結局それが煩いになります。

「我」に執着し、誰かに勝たなければならない、誰かよりも偉くならなければならない、誰かよりも強くならなければならない、ということをやり続けることは、結局「我」をいつまでも振り回してしまうということです。

「私が安心したいから」と思って、起こすこと全てが、煩いの種を作ります。

だからそれは完全に思考の罠です。

普通の思考をすると、欲を無くすということは、我慢をするというふうに捉えられ、「欲しい気持ちを無くす」ということよりも「欲しいをどうやって叶えるか?」の方に人気が集まります。

しかし、煩いの根本原因は「欲しい」という方にあります。

そうしたことを説くと人に疎がられます。

そういうわけで、

「みんなの欲しいを叶えますね」

というふうな胡散臭いカルト宗教のほうが支持されるのです。そして、どんどん宗教化していきました。ただ、いくら人気があっても、人気があるからと言ってそれが正しいとは限りません。

しかしながら、最高の安穏、最高の幸福である涅槃寂静は、我慢の上にあるものではありません。

「我慢という方法論しか知らない人たち」にとっては見えないというだけなのです。

それは思考を超え、論理を超え、次元を超えたものであるからこそ、語り得ぬものであるという感じになります。

涅槃寂静は「心の安穏であって、我の安穏ではない」という感じです。

まあ言葉で語り得ぬ涅槃寂静については、まあそんな感じで「安らぎってどんな感じかなぁ」くらいに思っておいて、諸行無常や諸法無我、一切行苦を体感で感じて下さい。今に集中し、ありのままの現実を見破ってみましょう。

涅槃寂静についての対機説法

さて、ついでですので、涅槃寂静についての対機説法といきましょう。語り得ぬ涅槃寂静について「語ること」はひとまず終わりですが、ここで19歳の時の僕と現在の僕を会話させてみましょう。現在の僕が19歳の時の僕に行う「涅槃寂静についての対機説法」です。

それではスタート。

「僕にはわからない。なぜ人を幸せにすると謳う者たちが作り出すもの、語るものが僕を苦しめてしまうのかを。

全ての苦しみから脱することはできるのだろうか?

一切の悩みが無くなることなどあるのだろうか?

そうしたまがいものたちであふれる世の中に希望はあるだろうか?

希望を持つことは、絶望をもたらすだけではないのか?」

「では希望とは何かね?

何をもってすれば君は一切の悩みをなくせると思うのかね?

世界がどのようになれば、苦しさはなく悩みが無くなると思うのかね?」

「一切の裏切りがなく、一切の曖昧さもなく、一切の不合理も不条理も存在しない、完全に納得できる世界があれば、少なくとも悩みはなくなるのではないか?

という形で考えているが、世にはたくさんの主義があり、既に宗教を理由として仲睦まじくあるはずの対人関係も仲違いになった。

そうした考え方、生き方に同化しないと対人関係すらままならないという現実を見た。

だからいくら自分の中で完璧な形の哲学を導いたとしても、その分だけ様々な主義を持つ人達と対立することになり、結局相容れぬ構図は無くならず、いつまでも悩み苦しむことになるのではないかという絶望がある」

「つまり考えうる中での希望とは何かね?」

「可能な限り完全であれば、何が起こっても相手に依存することなく問題にも対処はできると思う。だから、完全な者となることが唯一の希望ということになるのかもしれない」

「では依存というものは一体何なのか?」

「相手に期待を寄せることだろう。相手に期待を寄せて、自分の希望通りになって欲しいと願い、自分の都合が叶うようにと思いを馳せることだろう。相手がいなければ成り立たない経験に対して、相手に『こうあって欲しい』と願いを持っているということになるだろうか」

「それは相手を『幸せの条件にしている』ということになるのかな?」

「単純にはそのようになると思う。でも、人間は社会的動物だし、他人との関係性を無くしてまで生きていけるような社会ではないと思う。

社会的な力をつければ、それだけ問題を解決できたり、悩む対象が減ったりはするかもしれないけど、それでもそれに付随して新しい悩みや問題が起こって結局苦しみはついて回る。

山ごもりをして自給自足なら何とかなるかもしれないが、それはそれで非合理だし、自給自足していても餓死してしまうかもしれないし、嫌でも勝手に腹は空く。飲み水の確保とか衛生面とかもあるし、暑さ寒さにも耐えていかねばならないし、病に苦しんだ時に治療を受けられないというような怖さもある。そうした怖さがあればそれは、苦しみや悩みが無くなったことにはならないだろう?

相手を自分の幸せの条件はしたくないけど、誰かとの関係がないとそれ以外で様々な恐怖が起こる。

相手を好きになれば失うのが怖くなり、何かを欲しいと思えば、それが手に入らないこともある。でも人と会えばそいつが嫌なやつかもしれないということもあるし、それならその時点で嫌な気分になる。

誰かを条件としないならば、誰とも関わってはいけないことになるし、誰ともかかわらないのであれば、生命としての恐怖が加速する。だから八方塞がりだ」

「では何が完全で、何が満たされれば恐怖はなくなると思う?」

「世の中では神が完全だとか、如来が完全だとかそういう曖昧なことを言う。信仰心を持ってすれば神がお救いになるとか、如来が極楽へ連れて行ってくれるとかそうした事言う。

しかしじゃあ何故そうしたことを説くものの間で軋轢があるんだ?

何の信仰も持たないものよりも、より悩み、より苦しみ、より争っているじゃないか。

だからそうした事は譫言だ。だから完全とはそうしたことではないと思ってる。そして、それが神であろうが如来であろうが、人間であろうが、そうした構造しか作れない者たちが何ももたらすことはないだろう。できるなら今すぐにやっているはずだ。

そして、何かを満たしても、その次にはまた不足を感じてしまう。だから、どうあがいても恐怖は無くならない」

「そういうのは、妄想を妄想で無理に打ち消して一時的に苦しみを忘れるというようなことだから放っておけ。証明しようもないようなものを無理に信じ込もうとしないと、悩みや苦しみ襲ってくるんだろう?

そういうものは、いわば自分で自分を騙すようなやり方だ。

だから放っておけばよい。無理に抵抗する必要もない。

では、もう一度聞こう。どのような現実を望むのだ?」

「一切の悩みや苦しみのない現実だ。

でもそれは叶いそうもない。

死ねば全ての悩みや苦しみが無くなるのか?

何も感じないならば、何も苦しむことは無くなるんだろう?

じゃあいっそその方がよっぽどマシじゃないか!」

「では、何かを感じるということはどういうことかね?」

「現実の体験をしているときとか、それ以外なら何か空想にふけっていたり、思い出を思い返したりしている時、自分は何かを感じていると思う。

だから生きている限り何かは感じていて、生きている限りそれからは逃れられないと思う。

ただ、寝ている時も夢を見ている時は夢を感じているということになるのだろうけど、記憶が無い時は何も感じていないような気がする」

「現実の体験と空想や思い出ということは、目で見ること、耳で聞くこと、鼻で嗅ぐこと、舌で味わうこと、体のどこかで感触を得ること、そしてその他に意識で何かが起こることという感じになるね」

「だいたいそんな感じだろうな」

「その意識はどこから生まれた?」

「え、記憶だろ?」

「じゃあ記憶はどうやってできた?」

「それは今までの経験だろ?」

「何で経験をすることになった?」

「それは自分が生まれたからだろ」

「じゃあ、生まれたときから今に至るまで、その体とその頭は使いながらも、全部外から得てきたものになるな」

「考えてみればそうなるな」

「じゃあ君とは一体何かね?」

「今、こうやって考えている自分だろ」

「その考えている自分は、全部外から得てきたもので作られてるんだろ?じゃあ、君自身は一体どこにいるんだ?」

「こうやってこういう考えをしている自分だろ?」

「じゃあ、そうして考えている自分を意識としよう。

自分である意識がなぜわざわざ嫌なことを思い出したりして不安になったり苦しい思いをしなくちゃならないんだ?

自分で自分を苦しめて何がいいんだ?

だって苦しいだけじゃないか。何の意味があるんだ?」

「考えたくなくても考えてしまう。

そして考えたことに対してまた考えて抵抗している。

こうした構造からは逃れられない。

こうした構造から逃れたい」

「では、あえてそんな苦しみを感じている君を「心」として、苦しみを与えてくるものを意識と呼ぼう。

そうなると、外から得てきた情報が集まった『意識』が、君の本体である「心」を苦しめているということになる」

「表面上の自分が、本当の自分を苦しめているということになるのか?」

「まあイメージとしてはそんな感じだ。でも本当の自分なんて言ったところで、さっき言ったように君が君だと思っているものは全部外にあるものから形作られたものだろう?

だから『心』は本当の自分なんてな感じのものじゃなくて、五感からの情報とか意識から起こる情報をただ受け取っているにすぎない『ただ認識する働き』というようなものだと思っておこう。『ただ受け取っている』というだけだというような感じだ」

「でもそれを理解しても結局苦しいんじゃないか。

それはそうだとしても、それが一体何なんだ?

『あなたは何も知らないことを今知ったのだ』みたいなもんで、それだけじゃ何も変わらないじゃないか。

じゃあそれを理解したところで、悩みや苦しみを感じなくなるのか?

全ての苦しみから逃れることができるのか?

自分を取り巻く世界は都合よく動いてくれるのか?

そんなことないだろ?」

「じゃあいま現実には何が起こってる?」

「今息してるし、話してるし、目ではなんか見てるし、頭では何かをぐるぐる考えてる」

「じゃあ、本当の現実をよく観察してみようよ」

「だから、息してるし、話してるし、目ではなんか見てるし、頭では何かをぐるぐる考えてるってことだろ?」

「そうじゃないよ。それを今に切り取ってみようよ。瞬間として今に切り取って現実を説明すると?」

「絵が見えていて、音が断片で聞こえていて、頭では…うーん…どう説明すればいいかわからない」

「音が断片でつながらないんだったら話にはならないだろ?」

「まあ理屈で言えばそうなるのかな」

「じゃあ何で会話が成立すんの?」

「うーん…」

「じゃあ、意識の方で今現在に切り取って考えたらどうなるだろう?」

「まあ『意味』としては何も示しえないだろうな」

「じゃあ意味として何も示しえないものが毎瞬間ごとに起こっているだけになるだろ?

常に変化しながらな」

「でもそれが何なんだ?

それでも結局瞬間はつながっていて、意識でも意味が成り立って、結局悩みになったりとか苦しみになったりしてるじゃないか!

意識からの嫌な信号を結局心は受け取るんだろ?

じゃあもうどうしようもないじゃないか!」

「だからそうやって形になったものは全部苦しみなんだ」

「そうだ、苦しみだ。

じゃあそれでどうやって苦しみが無くなるんだ!」

「それは頭で考えても到達はできない」

「適当なこと言うなよ」

「言語で説明できないものをどうやって説明しようかな。

それはやっぱり言葉で理解してもらうんじゃなくて、イメージの上ででもとりあえず体験してもらうしかないな」

「説明できないものを体験なんてできるのかよ。

『神と一体化した』とかそれ系ならゴメンだぞ」

「そういうのじゃないから安心しろ。あのさ、言語で理解した先に到達点があるという場合もあるけど、体験が先で言語で示していくという場合もあるわな」

「まあそういう場合もあるのかな」

「でも体験というか体感が先にあったとしても、それを言語化できないという場合もあるんだ。次元が違うからな。でもこの次元が違うってのは、『すごい』って意味じゃないぞ。普通の概念としての次元と同じくらいのニュアンスな。

さて問題です、原因のあるところに?」

「結果がある」

「では原因が無くなると?」

「結果も消える」

「原因があっても条件が揃わないと?」

「結果も生じない」

「はい正解」

「じゃあ殴られて痛いというときの原因は?」

「殴られたから」

「ではないんだな、結果が消えないからな」

「殴られたところが傷んでいるから」

「だいたい正解。それなら傷が癒えると痛みはなくなるからな。

じゃあ苦しみの原因がある時に?」

「苦しみという結果がある」

「じゃあ苦しみの原因が消えた時は?」

「苦しみは起こらない」

「じゃあ苦しみの原因があっても条件が揃わなければ?」

「苦しみも生じない」

「じゃあ嫌なことを言われたことを思い返した時の苦しさの原因は?」

「嫌なことを言ってきたやつじゃなくて、嫌なことを思い出すことだって言いたいんだろ?

でもそれじゃ勝手に思い出してしまうということから逃れられないんだから、どうにもできないんじゃないか」

「じゃあ何で嫌なことを思い出してしまったのかな?」

「そんなの自分じゃわからないよ」

「自分の意志とは無関係に、思い出すということが起こってるってことだな」

「そうだ。だから原因は無くならないんだ」

「でも仮に原因が消えると?」

「それも無くなるのか?」

「原因があっても条件が揃わないと?」

「結果も生じないというやつか…」

「じゃあ結果が起こったとしても、今という瞬間に切り取って結果を捉えると?」

「意味を成さないように、結果も意味なしになる」

「自動的に原因から結果が生じたとしても?」

「結果は意味なしになる」

「それに自動的に内容が決まってしまうような『悪夢』を見ている時は、それをコントロールすることができない。

でも考えてみると、起きている時は一応それを制御し、思うまま妄想することだってできる」

「ということは、これは夢と同じなのか?」

「だから目覚めた者なんて言われるのさ。

でもそれだけじゃない」

「それはそうだとしても、結局どうにもできないんだろ?

生きているのは悪夢と同じようなもんで、勝手に何かをやりたくなって、期待して、失敗して、裏切られてというような感じになるんだろ?

目覚めるなんて言われても、既に目は覚めてるよ。

でもこれ以上どうやって目を覚ますんだ?

それだけじゃないって言われても、その手前すらわからないのに何をどうするんだ?」

「じゃあ次に原因と条件についてイメージしてみよう。

蛇口を捻って水を汲んだ、さて原因と条件は?」

「原因は蛇口を捻ったからだろ?

条件は水道が通ってるとか、蛇口が壊れていないとかそういうのだろ」

「残念。原因は水を汲もうと意図したこと、厳密に言えばその意図が発生したことだ。蛇口をひねることすら条件になるんだ」

「もうそういう屁理屈みたいな問答はいいよ。

結局どうしてもそうした意図とかが勝手に出てきて、それに縛られて悩みながら、苦しみながら死ぬまで生き続けなきゃいけないんだろ?」

「何でそんな意図が起こると思う?本能の面、意識の面、全てにおいてどこからそんな意図が起こってると思う?」

「知らないよ。どうせ誰かから得てきたような情報とかそんなんだろ?」

「その意図の源流を観察してみよう。今という瞬間を観察し、自動的に起こる全てを具に観察して、その本性を見破ってみよう。そうすればいずれ明らかになる」

「それで悩みや苦しみが無くなるのかよ」

「無くなるという次元ではない。

それらは、そもそもあって無いようなもの、無いがあるように感じるような虚像だ。

それが必ず言語を超えて体感できるはずだ」

「そうした境地があることを信じるってやつ?

信じるって疑うってこととセットだから、結局証明し得ないことを無理に支えることになる。だから、信じるとかそんなんは嫌だし無理がある」

「そんなことはしなくても構わない。

ただ『もしかすると自分にはまだ見えていないのかもしれない』というようなことだけを頭に置いておくだけで十分だ。

それは論証を必要とせず自ずと姿を現す。

それまでは、自分を頼りに、他を頼りとせず、明らかに確認できることだけを頼りに、それ以外のものを頼りとせずに進んでみよう。

旅をしてもまた一度家に帰るように、寄り道をしてもまた帰ってくるように、何かに頼ること無く己を観察していこう」

「うーん…何となくわかったけど、結局論理には穴があるような話だな」

「だから、論理を超えてる別次元のことだから言語で示せないってことになる。

ただ言語で示しえないと言っても、いずれそれがどういうことかはわかる」

「それで本当に悩みや苦しみが無くなるのか?」

「だから無くなるってのとは別次元だって言ったじゃないか(笑)」

Category:philosophy 哲学

「涅槃寂静」への12件のフィードバック

  1. 拝読させていただきました。 真理真実を学ばれる これからの皆様は大変参考にされるのではと思います。 有難いです。

    私は年も往き難しいことは解りませんが、  年と共に
    過去も現在も未来も何も得られない。何も得ている人も物も
    無いことは何故か良く自分なりに解らせていただきました。
    年のせいでしょうか。  統べての不可得と云う。如来が
    決めた訳でも神が決めた訳でも無い不可得と云う 頼りにならない頼りに魅了されています。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      得る主体が固定的ではない現在の状態であり、客体も認知した現象にしかすぎません。諸法無我と諸行無常という理による今でしか無いという感じになるでしょう。

  2. bossuさんは    生滅 滅し已った。楽中においでになるのでは有ませんか。 他から与えられた楽しみでも無く、
    100tの金塊を持っても得られぬ、 本来の 自からの楽中に安住しておいでになるのと違いますか。?
    住する事 無き智に安住する人は、如来の語をお借りすれば
    この人、世間に居ること 虚空に遊ぶが如しと。私もまた従って学ばせていただきたく思います。

    1. 伝統的表現としては、苦でも楽でも非苦非楽でもなくといったようなものでしょうか。その中でただ行為のみが残るというような感じになるでしょう。

  3. 仰せになられます処は
    苦楽滅盡せる四禅の状態とも異なり、 
    智に依り心・意・識を滅し、寂然不動にして無為なれば
    虚空に流入する事を私は学びました。
    流を入すことの重要さに思い至ります。

  4. 禅定は解いた時に結局元に戻るので、それで終わりというわけではありませんし、行為のみが残るという流れをありのままに観て煩うことがないというものになるでしょう。

  5. ご存知の如く  禅定に優れた舎利弗尊者が bossuさん仰せの通り入禅中は菩薩第八初不動地の者と同一であっても出禅すれば、ただの凡夫同様、あれは女、これは云々と元に戻ってしまいます。結局 生死を盡くし切れていません。 舎利弗尊者は阿羅漢果に住するかたですから、我が生 已に盡き 所作、已に弁じ後有を受けずとご自身は解っていても、僅かな煩悩の微細な所知量を残し、生死を盡しきっていません。   僅かな微細な煩悩の所知量は 無相の功徳により消滅してゆくことを 舎利弗尊者は学んでいるはずですが・・・・・・・・・
    流れをありのままに観て煩うことがない深般若波羅蜜多の中で私も遊びたく思います。
    それもこれも自らの功徳の応える所かと存じますが。

    1. 様々なお話は「意識で捉えたもの」という属性もありながら、かつ、どの段階どの時点のお話かはわからないという側面があります。あくまで全てを受けるのはこの心であり、煩悩や功徳の概念自体に執著が生まれることは避け、それはそれとしてただありのままに観て、反応することで生まれる「為さねばならぬ」という「因となる能動的な意図」を流すようにして「因果が自然に消える」というのがこの心としての安らぎとなるでしょう。

  6. 受陰を消せばよいと云う事だと思いますが、
    執着しまいとする執着心が発生しませんか?

    1. 執着しまいとする執着心が起こるため、思考で思考を打ち消すことはできないというところがポイントです。
      きっと誰しもが一度はそうした論理上の矛盾に躓くと思います。
      こうした点すら論理で完全には示し得ないということにもなりますし、論理を超える必要があります。
      言語で示しえないところにはなりますが、参考までに示しうるところまでは触れておきます。
      それは面積を持ってはいけない一次元、数学上の「点」を示すことができなくともイメージとして捉えることはできるということに似ています。
      イメージとしては思考の次元から体感へとシフトして、生起と消滅を観るというところにヒントがあります。
      執着心すら、因縁により「形成されたもの」であることを観るというような感覚でしょうか。
      無を意図し、消すことを意図するとき、有を前提としてしまいます。そうなると有のごとく扱ってしまうという思考の罠が潜んでいるというところに着眼していただければと思います。

  7. 流れをありのまま観て煩う事が無い。 言葉を替えれば
    打捨置くことの大切さや、  行為のみが残るという識住
    (如来は住識の方)のお話なぞ。   そして今回執着しまいとする執着心等のお話。
    加藤という幻にねんごろに応答していただき楽しく学ばせていただいたことを深く感謝申し上げます。
    私事で恐縮ですが、私が執着を観察するのに、十方に執着心を求めてもどこにも存在していない。執着心だけでは無く
    あらゆる念も無念も不可得であると観察しております。
    すべては一相一味だと観察しております。いかなる波浪も
    海水であることを知っているだけです。
    bossuさんにおかれましては、時も時でございます。
    お体ご自愛され益々ご精進されます事を祈っております。
    まずはお礼まで

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