最も個人的な真理問題

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」― これは、われわれの現在の教養の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 曙光 196 序

「私がしていることは、そもそも何であるのか?ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」そんなことを中学生くらいにもなればほとんどの誰しもが思うはずですが、誰もその疑問に答えてはくれず、その先自分をごまかすように大人になっていきます。

「これが答えだ」と束の間の錯覚を覚えることもありますが、寝て覚めればそれもなんだか色褪せ、また何かを誤魔化すような生き方がスタートします。

「あれこれ世に説かれる真理などどうでもいい」

それは確かに正しく、いくら自己中心的であると周りに非難されようが、世の中で説かれている真理などどうでもいいのです。

「ただ自分がどうあるのか」それ以外に関心があると言っても結局は自分の感情のため、とどのつまりは自己都合になります。

こうしたことを問題視することを世間では「子供だ」としますが、そうして子供扱いする人たちも、ただごまかしながら生きているだけであり、答えの提示もできず、自らも苦しみ彷徨っているだけだったりします。

大人ぶりながら、目の前の何かをこなし、不足感を感じ、ただ惰性で生きているにしかすぎません。

若き日のシッダルタやサーリプッタのように、生きることそのものに疑問を持ったことは誰しもがあるとは思いますが、誤魔化すにごまかされ、今なお誤魔化しながら生きているというのが本音でしょう。

いいかげん「社会の中でどう役立てるか」から離れろ

個人よりも社会が尊いと信じ、何某かの真理ですら「社会の中でどう役立てるか」ということしか考えられない人たちで溢れかえっています。

アメリカのトップエンジニアのような頭脳が欲しいという動機でサマタ瞑想をするようなものです。

ニヒリズムを体育会系解釈し、「自分で価値を見つけて頑張っていこう!」と歪めていくのがせいぜいです。

いいかげん「社会の中でどう役立てるか」から離れ、極めて自己中心的に真理を探ってみてはいかがでしょうか?

「○○の役に立つ」というのは、本当はどうでもいい話のはずです。

いかにそれが社会の中で賞賛されようとも、賞賛されたときの感情、賞賛されるだろうという感情への動機くらいがせいぜいです。本当は自分のことにしか関心がない、それが本音のはずです。

「王様になっても死への恐怖や病の苦しみ、人に対する懐疑、老いていく事実からは逃れることができない」

そうした事実を無視しながら、浅はかな成功に一縷の望みに期待をかけて日常の刺激で誤魔化し、ただ恐怖心を内に秘めながら時間を浪費しています。

四苦八苦 あらゆる苦しみ

ただ安穏であれ

実際問題、社会が今どうなっていようと、自分が幸せであればそれだけで十分です。ただ安穏であればそれだけで十分であるはずです。

敵は倒すことができるかもしれません、しかし恐怖心は誤魔化すことができても倒すことはできません。

それほど臨場感を感じていなくても、どこかしら無意識的に何かの恐怖心を持っているはずです。

恐怖心のあるところに安穏はありません。

そして恐怖心は克服するものではなく見破るものです。

そうして見破ることを意図した時、社会は邪魔者でしかありません。

すぐに社会の方に意識を向けさせようとするものこそ、見破るべき対象そのものなのです。

真理とは何か?

最も個人的な真理問題 曙光 196

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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