慈善家は、慈善を行なって自分の気持ちの欲求を満たす。彼はこの欲求が強ければ強いだけ、その欲求の満足に役立つ他人のことを、それだけ一層立ち入っては考えない。事情によっては彼は思いやりがなくなり、他人の感情を傷つける(ユダヤ人の善行や慈悲心についてこのようなかげ口がある。周知のようにそれは他の諸民族のものよりも幾分激しい)。 曙光 334
世の中は出来の悪い人ほど目にかけられ、世話をする側に好かれるものです。自立心があり、世話をする側の役に立っている側ほど粗末に扱われることが多くあります。
特に息子や娘に執着している親などはその傾向があります。兄弟姉妹の中で、なるべく頼りなく横暴な性格の者が一番目にかけられ、実質的にも労力や費用をたくさんかけられる一方、自立して何でも自分でやってしまうような者は、なぜか「一緒に助けろ」とせがまれるほどです。
自分の世話が必要である相手ほど、自分の影響を与えることができるというだけでなく「頼られている」という一種の自惚れを得ることができるからです。
双方に依存関係
これは双方にとって依存です。助けられる側は、「やってもらえる」という満足感と実質的な利益を得ながらそれを常に期待し、それが当然だと思っているフシがあります。
一方でこの引用を用いるなら慈善家である助ける側は、頼られている、役に立っている、などという一種の満足感と、それを愛情だと錯覚しているところがあり、自分の生き方の条件にしています。
双方に依存関係があるということは、双方に危険な種が潜んでいるということです。
以前、親戚で母と娘の二人暮らしをしている人がいて、そのお母さんが亡くなった時の娘さんの叫びようはすごいものがありました。
おそらく僕は両親が亡くなっても泣いたり嘆いたりしません。特に何も困らないという点でも嘆きませんが、感情的にも泣くことはないでしょう。
どうせどちらかが先に死ぬのが定めです。それを何処かで永遠に一緒にいれるのがいい、と期待する人は胡散臭い宗教などにハマるのでしょう。
相手への依存と感謝の気持ちは別物
両親という存在も、五感がそれぞれの信号を受け取って頭の中で合成した存在です。たくさんの思い出もありますが、全て記憶です。それは配偶者も子も友だちも同じです。
相手に依存するということと、感謝の気持ちを持つことは全く別物です。相手に対して悲しいような感情が起こらないということは、相手を軽視しているというわけでもありません。
死別の時に悲しみという感情が起こるか起こらないかという点と感謝の気持ちがあるのか無いのかということは関連していません。
悲しみという感情が起こらないとしても感謝の気持ちを持っているということは成り立ちます。
悲しみは即時的な反応としての感情であり、悲しむことがいけないわけではありませんが、その悲しみを「理解しろ!」と誰かにすがったり、いつまでも悲しみを引き摺って何かしらに制限がかかるということは苦しみでしかありません。
そうしたものは依存であり、記憶への起こってから起こってしまう無駄な苦しみです。
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慈善家のサポートをして、それで軽視されて嘆くのなら、それはやはり慈善家に某かの期待をしていたということです。
それに憂うなら、慈善家と関係を持たなければいいだけのこと。
期待がある限り、依存関係になってしまいます。期待をしてしまうくらいなら、そんなことには関わらないことです。
慈善家 曙光 334
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