どうして命令されなければならないのか、多感なティーンの頃には悶々と考えなければなりません。
感謝というものはこちらが一方的に即時的に、わき上がってくる性質のもので、「感謝しなさい!」の一言は、感謝している素振りをしなさい、ということになってしまいます。
どれだけありがたい状況か考えてみなさい
もしくは「どれだけありがたい状況か、考えてみなさい」ということですが、そんなことは「笑いなさい」で有名な瀬戸内寂聴氏のコラムにとどめておいていただきたいですね。ひとまず命令形はやめておいたほうがいいと思います。
「感謝しなさい!」
「うるさい!」
という感じになってしまいます。
お前が言うな
そういうことを言うと、「僕よりありがたい状況にいるお前が言うな」という十代の鋭い目が待っています。
こういう言葉の奥には「自分は相手のために何か尽くしている」という偽りの愛があります。
見返りを求めないのが愛のはずなのに、「感謝しています」ということがわかる意思表示、という見返りを求めています。
感謝していればいい
「感謝しなさい!」とか、「どれだけありがたい状況か考えてみなさい」というようなことは、義務教育の道徳でもありそうな話題ですし、伝統的宗教はおろか、カルト系の新興宗教ですらだいたい同じようなことを言っています。
アファメーション的な効果を狙ってか、むしろカルト認定されるような新興宗教や宗教まがいの団体ほどほど「ありがとう!」「感謝してます!」みたいなことを必要以上に連呼していたりします。
教育としてこういうことを言う人がいますが、そんなことはすぐにやめたほうがいいですね。そんなことを言わずに、常にいろんなことに自分が感謝していればいいことです。
感謝しているのならば、自然とそういう様になるでしょう。
そして、時折「どうしてそんなにありがたがってるの?」というような質問が来た時に「これはこういうことだから、これはありがたいのさ」とさらっと言う、そういう形式なら角が立ちません。
ただ、「ありがとうというと、ありがとうといいたくなる出来事が起こる」と言ったように、その状況を招くためにありがたがっているふりをするのは、電車の中で英書を読んでいる人と変わりないので、やめておいたほうがいいでしょう。
行動の約束はできても、感情の約束はできないのですから。
感謝と当然
感謝の対義概念として当然や当たり前というような概念があります。
一般的には、当然と思うこと、当たり前だと思うことを戒め「感謝をしなさい」というような風に説かれたりしています。
しかしながら、本来は、感謝するとともに「当然である」という思いも持っておく方が理想的です。
「ありがとう」は「有り難い」ということになりますが、その受けた現象なり何なりが「有り難いこと」という属性を帯びると、同語反復的に有り難いことになってしまいます。
感謝の念、ありがとうという思いを持つことは良いですが、現象としては「こうしたものを受け取ることが普通」という感じでいた方が良いわけです。
なので、理想としては感謝とともに当然ということを思うというような感じになります。
感謝しなさい! 曙光 5
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