本来は意識の向きや意図に沿って面白い現象が次々に起こっていきます。
ただ、こうした意図を阻害するものがあります。
意味のあること、役に立つこと、何かをした気分になるもの…
判断の上でおこる様々な基準、それらはすべて基本的には意図を阻害するものです。
「学習は意味のあることだから重要である」ということで向いていないことでもやらされます。
「それは人の役に立たないことだからやめておきましょう」といって何かの意図が妨害されます。
そしてよくあるのが「何かをした気分になるもの」です。
売れていない役者志望や芸人が仲間内でだけイベントを開くようなものです。
それは構いませんが、「何かをやり遂げた気分になるもの」の空間に飲まれてはいけません。
インターネットが普及してから「何かをした気分になるもの」が増えました。たいていは錯覚で仕掛けられているものです。
では逆に意味のあることならば良いのかということにもなりますが、それも「意味がないといけない」という呪縛の内側で踊ることになりかねません。
意味がありそうで、人の役に立ちそうで「何かをやり遂げた気分になるもの」もあります。
わかりやすいものは、英語学習ですね。
では、英語学習がいけないのかというとそんなことはありません。
それが好きでさらに徹底的にやるのならば何の問題もないという感じになります。
意味がなくても人の役に立たなくても構いません。
そして意味というものは背景によって常に変わります。
今、見渡す限りでは意味がなくても、どこかで意味が出てくる場合もあります。
人の役に立つかどうかも同様です。
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「好きなことだけをやりましょう」
というのもいいですが、本当に意図することや面白いぞと思うことは、どこかで抵抗があったりします。
今の自分の安定した身の安全を脅かしますから、多少は抵抗が出てきます。
好きな子に告白をするということが抵抗を含むというのと同じです。
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この世には「何かをした気分になるもの」がたくさんあります。
しかしながら、意味がなくて役に立たないのであれば、本当に無価値なのか、何かをした気分になるだけで終わりなのか、という点ですが、実はそうでもなかったります。
何かをやって「何かをした気分になるだけ」で終わるかどうかは、それをどれくらい徹底的にやったかによります。
継続的に徹底的にやります。
徹底的にやっていくとどんどん上手くなります。
「何かをした気分になるだけ」で終わるのかどうかも見えてきます。
意味があるのか、人の役に立つのか、何かをやって気分になるだけなのか、徹底的にやればわかるということです。なので、前提としての論理的説明の合理性を整える必要はありません。
先の役者や芸人のイベントを例にしてみましょう。
イベント内容も頻度も徹底的に、お客の呼び込みも告知も、ありとあらゆる面を継続的に徹底的にやれば良いのです。
たいてい一発、二発で終わっています。仲間内で語るのは好きですが、徹底的にやることはあまりしません。
でも思いっきりやると
「ああ、こんなことをしていても仕方ないからオーディションを受けよう」と思うかもしれませんし、そうしたイベントが黒字化してプロダクション化していく可能性もあります。
もしくは、それまでのノウハウを活かして異なる業種にスライドしていけるかもしれませんし、やっていくうちに出会った人たちとなにか面白い方向に向かい出すかもしれません。
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義務感も意図を阻害しますが、過剰な期待も意図を阻害します。
そして「仕掛けへの反応」も意図を阻害します。
それはそれとして形があります。
それを肯定するわけでも否定するわけでもなく、面白さを目安として波に乗るように遊ぶというのが一番です。
僕はしたことがありませんが、例えば義務感でロッククライミングをしても面白くありません。
これを登りきった先には…急に男らしいと言う評価が加わり、このメンバーの中でモテだすかもしれない、と変な期待感を持ちながらロッククライミングをしても何も起こりません。
「ロッククライミングの絵を撮れば、受けるだろうか?」というのは仕掛けへの反応です。
そうしたものを取り除いて、目の前にあるロッククライミングをやるかやらないかは、おもしろそうかどうかだけで決めてください。