情報的な大きさと「悲」の反応について触れていきましょう。
定義を示す順が逆になりますが、ここで言う「悲」とは、パーリ語のkaruṇā(カルナー)であり、慈悲の「悲」を意味します。「苦しみがあるのであればそれが取り除かれるように」というような思いです。
情報的な大きさというのは、いわゆるひとつの気の大きさであり、ある意味でのレベルの高さ、一種の余裕というような感じになります。
そんな情報的な大きさが大きいものに小さいものが吸い寄せられます。
小さいものが「余裕」を吸収しようとやってきますが、あまりに大きいと吸収されることもありません。
(なお、慈悲の「慈」はパーリ語でmetta(メッタ)と言いますが、慈は友愛を意味します。「遠隔歯軋り」と「慈しみ」 スッタニパータより)
少ない方が多い方に向かってやってくる
情報的な大きさが大き方、「余裕」というような感じが多い方に向かって、余裕が少ない人たちがやってきます。それ自体は別に普通のことです。
そしてあまりにも余裕がない人、余裕が少なすぎる人たちは、時に多い人から余裕を奪おうとします。
吸収されに来る、奪われに来るということは基本的には嫌なことですが、「ああ自分は余裕なのだ」という証でもあります。
最もわかりやすいのは、いきなり否定的な攻撃をしてくるような人です。建設的な議論がしたいわけでもなくて、単にそれっぽい愚痴を言ってくるような感じです。
こうした構造が起こる時、余裕な人に対して、余裕のない人がやってきます。情報的な大きさが大きい人に対して、小さい人がやってきます。
その逆はありません。
ということは、少なくとも自分の方が情報的な大きさは大きく、余裕がある方なのだ、ということになります。
これは悪質ないじめにおける、いじめっ子、いじめられっ子の関係でも同じです。原則的に余裕がある方に余裕がない方が絡んできます。
スピードを速めるとエネルギーは高まる
ちなみにこうしたエネルギーは、動作のスピードや決断を速めていくに従い勝手に高まっていきます。焦るというのは逆効果なので、普通のスピードから「ちょっと速くしよう」とする程度が一番です。
「普段の自分ならこれくらいだ」とか「今のコンディションならこれくらいかなぁ」という速度を基準として、1.2倍から1.5倍くらい速くするというだけです。さらに声や力を少し大きく、強めに出すというのも効果的です。
また、決断の早さについては、思考による気力の消費を減らすということにも一役買います。
「悲(カルナー)」の反応
さて、本題ですが情報的な大きさが小さい人は、それが自分よりも少し大きい人から余裕を奪おうとしてきます。
しかし、あまりにかけ離れていると奪われようがありません。
あまりにかけ離れていると、「どうか苦しみが取り除かれますように」という思いが生じます。
なので奪われることがありません。
しかし、相手の思惑通りに反応してしまうと「余裕」が奪われてしまいます。
一つの成功法則への依存
世の中には、客観的に、かつ、冷静に見ると「みすぼらしい」と思わざるを得ないようなことをいつまでも繰り返している人がいたりします。さらに「それが効かないという可能性を想定できない」という意味での愚かさを感じてしまったりもします。
それは一つの成功法則への依存とでもいうべきか、何かしらの誇らしいことを、わざわざ自己申告してくるような人たちです。
特に内側で誇りに思ってもらうのは良いのですが、「褒めてもらおう」、「すごいと思ってもらおう」ということで、聞いてもいないのに自己申告をしてくるという姿は自尊心の餓鬼のように見えてしまいます。
ただ、いつも思うのですが、相手も同等か、もしくはそれ以上であるというような可能性を想定できないのか、というところを思ったりもします。また、人によってはそれを本当に欲しておらず何とも思っていない、というような場合があるということを想定できないものなのか、と思ってしまったりします。
何より「あなたがそうであろうが、私には本当に関係がありません」という構造を持っている場合、本当に聞かされている側はどうしようもないという感じになっています。
例えば、どこぞの学校を出ているとか、いくらくらい稼いでいる等々のことを言われても、それが聞かされている側と何の関係があるのか、というような感じです。
どこぞの学校を出ているので、産学連携の話をつなぎますよとか、これくらい稼いでいるので融資しますよというのならばまだわかりますが、「だからなんですか?」と返されたら終わりとしか思えないような自慢のようなことをしてくるという場合があります。
そこで例えば本当に「だからなんですか?」と言ったりしようものなら「僻んでいる」と思ったりするので困りものです。本当に自分に関係がないのだから致し方ありません。
そうした人たちは、褒められた記憶、誇らしい気持ちになった記憶に縛られいます。そして、余裕がないからそうしたことが必要になるという感じになっていますが、自尊心の欠落を「人から称賛され、承認されること」で満たそうとしているということになります。
ということで「余裕を奪おうとしている」という感じになります。
「みすぼらしい」というような気持ちで一杯になりますが、同時に「苦しみが取り除かれますように」という気持ちで一杯にもなります。
札束を見せびらかせる成金おじさん
実を言うと今回、ある「札束を見せびらかせる成金おじさん」を思い出したので、情報的な大きさと「悲(カルナー)」の反応について触れてみることにしました。
一代で稼いだということは素晴らしいことですし、家柄的なことが比較対象になりがちな「成金」という言葉を用いるのもどうかと思いましたが「みすぼらしい成金」ということで、成金という言葉を使っていきます。
ある時、彼の周りに人集りができていました。
通りかかったので、ちらっと見てみました。
何をしているのかと思うと、財布の中に百万円くらい入れて、それを20代の人達に見せびらせていました。
そこにいたほとんどの人は、驚愕的な感じなのか、成金おじさんに「すごいですね」と言っていましたが、それをくれるわけでもなし「何がすごいのか?」と思ってしまいました。
さらに彼は僕にもそれを見せてきました。
少し舌を出すようにして見せてきたその時の顔は「助平」という感じがしました。スケベと言うより、「すけべえ」という感じです。
下卑た根性が下卑た顔に出ていました。
それはもう「このブレスレットで宝くじを当てました」的な広告並みの雰囲気でした。
ちなみにこの成金おじさんの口癖は「すごーい。すごいすごいすごーい」です。
その当時は勤め人時代であり、多少なりと株で得たお金があったりしつつも、それほどお金を持ってはいませんでしたが「そういう問題ではない」ということを思っていました。別に彼よりも持っているとか、持っていないとかそういう問題では無いという感じです。
ということで、一瞬汚物を見るような感じの表情をしてしまったと思いますが、すぐに次の瞬間には、「苦しみがあるのであればそれが取り除かれるように」というような気持ちになったので、そうした表情になっていたと思います。
すると彼は、「フン!」と「こいつには効かない」と思って拗ねて去っていきました。
「本当は羨ましいくせに」という追い打ちにも「相手の苦しみが消えること」を思い続ける
ここで大切なのが、本当に相手の思惑通りには反応せず、悲の反応をした後で「本当は羨ましいくせに」というような追い打ちが来たときに、続けて「相手の苦しみが消えること」を思い続ける姿勢です。
情報的な大きさが近い場合、追い打ちによって奪われてしまう場合があります。
しかしながら、情報的な大きさがあまりにもかけ離れていると、瞬間的に「悲(カルナー)」の反応になりますし、そうした奪いに来る人自体があまり近寄ってきません(そういえば思い返すと、最近ではこのような成金おじさんのような人に出くわしすらしません)。
なお、俗っぽい例えですが、この情報的な大きさの感覚は「報酬の提示」にも表れてきたりします。
変な感じですが、20歳くらいの頃であれば、時給が千円も無いようなバイトを誘ってくる人もいましたが、今となってはそんなお誘いをしてくれる人が出てきません。
端的には「そんなお誘いをすると『は?』と言われるかもしれない」というような空気感が出ているからというような感じになっています。
大きな余裕、より大きなエネルギーの前では通用しない「言語で示せるもの」
その尺度のひとつは、どこぞの学校とかどこぞの企業の名前だったり保有資産だったりもするのでしょうが、本来は「情報的なエネルギーの大きさ」であるため、それらは部分的であり、汎用性があるわけではありません。
より大きな余裕、より大きなエネルギーの前では通用しないという感じになっています。そして言語的な尺度は、精神の強さという尺度には勝てません(例えば、理解者で触れたおばあさんのような人に成金おじさんのようなことはできませんからね)。
つまり「言語で示せるもの」は、非言語的な余裕の前では通用しないという感じになります。
極端に言うと、ビンビサーラやスダッタがシッダールタに「実は僻んでいるだろう」なんてなことを思わないのと同じです。
「僻んでいるんだろう」「本当は羨ましいと思っているだろう」と相手が思っていようが関係ありません。本当に思っていないのですから仕方がないのです。
それが良くないわけでもないのですが、自分には関係がないのです。
そんな相手にも悲(カルナー)を保つというのが、自分のためにも相手のためにもなります。
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