情報を揉むというようなことについてでも触れていこうと思います。
この情報というのは、情報空間であり情報宇宙のようなものです。ちょっとややこしいですが、バイト表現されるような情報とは少し違います。
思いっきり哲学テーマを書こうと思う時もあるのですが、まとまった時間とそこそこの体力が残っていないと中途半端になるのでしばらくは出せずじまいです。
ただ、何となくちょっとだけ触れていこうと思います。
意識の向きを調整する
「意識の向き」というものについて触れることがあります。
「ああ、ありがとう教的なやつか」と思った人もいるかもしれませんが、そうしたものと今回のテーマは少し違います。
意識の向きや意図とは何かというと、コップを取る直前に「コップを取る」という向きに向いたという向きです。
やや同語反復的ですがそれだけです。
で、「その程度ならいつも向いているぞ」という感じで思う人もいると思います。
例えば「馬券を当てるぞ」というようなものですね。しかし、そうした時は「馬券を買う」という程度にしか向きは向いていません。
馬券を買うということは、ほぼ確実に可能であると思っています。
そして、「馬券が当たるということはそれほどない」と思っています。
それだけです。
「いや、馬券は当たるんだ」ということを思っていると言ったって、「当たるんだ」と思いこめばいいという風に思っているだけで、本当に馬券は当たるとは思っていません。
それだけです。
つまり、願っていることではなく、心の奥底で「そんなもんだろう」と思っていることが向いている向きです。
情報を揉んで調整する
で、今回の主題に戻ります。
「いま、ここ」みたいな言い方が好きな人もいるものの、「いま、ここ」は、確かにそれが全てでありながら、因縁の因は、別の次元にあります。ただ、相互干渉はしています。
感覚的なものですが、一般的な心(認識する働き、ではなく、気持ちや精神的なもの)の状態は体に影響し、体を調整すれば心も調整されます。その程度です。
別の次元というと、銀河宇宙の遠く離れたどこかをイメージしてしまいそうですが、そうした距離的な離れ方をしているわけではありません。
いまこの心(これは認識する働き、受け取る機能)が受け取っているすべて、がすべてであり、その因も、「いま、ここ」にありますが、次元が違うため自我として捉えることはできないというだけです。
自我で捉えた「いま、ここ」は自我のフィルターがかかっています。なので「全て」ですが、捉えているのは歪曲された「部分」でしかありません。
で、相互干渉については、身体のことだからと体ばかりにアプローチしても、心(気持ち的な情報状態)が乱れていると、体を調整しても、また体も乱れていくという感じになります。
ただ、心の方が荒んでいるとしても、物理的なレベルの状態である体を調整すると、心の方が軽くなるということもあります。
なので気持ちを操作しにくいのであれば、体を操作するという感じになります。
別次元の因縁
では、思考においてその別次元の因縁はどうにもならないのか、つまり「馬券は当たらないという信念は操作できないのか」というと、一応操作することはできます。
ただ、そんな事を言うと、自我がギンギンZになります。
しかしながら、操作するということは、そんな「馬券を買おう」というレベルを超越することになります。
といっても、たいていは、どうせ「当たるように、当たるように…」というカイジに出てくるダメな人レベルをクリアすることができません。
操作方法は簡単です。
象徴化したものを本当に揉めばいいのです。
代表的なものは、気の玉です。
いや、そうしたことは実は落書きなどでぐるぐる丸を書いているときなどに実は無意識でやっています。
ぐるぐる丸を書いて乱れていても、何度も丸をぐるぐる描いて、きれいな黒丸に近づけていくような感じです。
しかしながらそうしたことをしてもいいですが、しなくてもかまいません。
「取るに足らない」で終わり
因縁を構成する情報空間や情報宇宙のようなものを調整するというようなことは、結局「取るに足らん」で終わりです。
それは今現在の事実と現象の生起を確認するだけで終わります。
確かに物事は並列思考をすることはできますが、現実的な動作として何かのタスクを同時にすることには必ず上限があります。
それを急かすような思考、パニックに陥らせるような情報が煩悩です。
本来は、息を吸いきると吐きたくなる、なので、空気を吸ったあとに吐いた、という程度です。
日々何かしら自分を脅迫してくるようなものがあります。
しかしながらそれは単なる「思考」です。
思考は自然発生します。
でも自然発生するということを知った上で、余計なものがたくさんくっついて急かされているんだ、と確認すれば、「取るに足らん」という感じになります。
人からの脅しや要請もそれが声なら結局、本来は「音」です。
その音をどうこねくり回すかは思考しだいです。
そしてその思考のあり方は自分以外のところから形成されています。
つまり、「僕のせいではありません」です。
「こんな思考をしてしまう自分がいけないんだ」というのではありません。
どんな思考をしてしまっても、
「私のせいではありません」
ということです。
結局「取るに足らん」ということになります。
つまり、何が起こっても、
「知らんがな!」
ということになります。
思考というものは、こうしたものでKOすることができます。
なので、個別に調整してもいいですが、する必要はありません。