「心とは何か?」ということについて様々な議論があります。しかしながら、あまりに定義し難い対象であるため、どのレベルで定義するかによって、いかようにも定義できてしまうのが心です。
「心とは一体何なのか?」
その答えを示すのであれば、端的には次のような定義を示すことができます。
「受け取る働き」
「認識する機能」
「受け取る点」
そしてその上で、なぜそのように心とは何かという問いに対するひとつの捉え方をするのか、そして、そうした場合、何が見えてくるのかという点について、哲学的にかつ一般的に示しつつ、最後は智慧により語ることとしましょう。
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そうするときっと諸法無我(諸法非我)や無明が朧げに捉えられるのではないかと思います。
世にあふれる様々な尺度から語られる心についての仮説が、仮観を前提とした無明から起こるものということがすっと理解できるかもしれません。
言語により示すため、言語の印象による齟齬が生まれるかもしれませんが、そうするしかないため、進めていこうと思います。
心が受け取るという構造
まずは「心とは何か?」ということを直接的に示すことなく、「心が受け取る」ということを踏まえた現実としての構造をモデル化して示してみましょう。
まず、シンプルに示すと次のような感じになります。
A 心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)
(単に受け取るだけ)
↑ 結果(情報状態)
B 自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)
(生存本能、生理反応、意識・無意識のすべてを含む、外界からやってきた情報により形成された関数。遺伝情報を含む物理的な肉体も自分がゼロから生み出したものではないためここに該当)
↑ 関数に対する入力
C 外界の現象(色)
(自我が認識することのできる全ての現象。接触する対象)
もちろんこうした簡素な構造からさらにBやCを細分化していくことができます。
さらに現象としてBからCへの出力も起こりますし、Bの内側(意識)でさらなる派生した情報状態の変化が起こるということもあります。
ということはひとまず置いておいたとしても、C→B→Aという構造を仮定すると、AとBの関係が分断され別物であるとひとまず考えることができます。
こうすることで、まずは「脳=心」、「自我=心」という構造が崩れることになります。脳と心、自我と心は、完全に一致するものではなく、「情報状態が生起する場所」と「結果を受け取る場所」という分離した捉え方が可能であるはずです。
そして、Aについては、客観的な計測ができないため、物理的な場所として示すことができません。示したところで、それはBの活動を計測しただけであり、Aがどのようなものか、どこにあるかということを示し得ないという哲学的な領域になるからです。
もしポイントがあるとしても、Bでは認識できない別の次元のものであるかもしれないというような可能性を否定することはできません。
そしてどうあがいてもAとしての「この心」以外の心は捉えることができません。できたつもりでも、Bにおける現象を「この心」が受け取るのみとなります。それは相手のAとしての心を捉えたのではなく、この自我を通じて相手の自我を捉えたというだけになります。
空たる我ゆえの無我(非我)
諸法無我という表現よりも諸法非我の方が表現としては適しており、無我となると、「有」を前提とした「無」となるものの、我ならざるものとして「我に非ず」とすれば、「我として示したいものは、我に非ず」という感じで、二元化された感覚から脱することができます。
こうして形成され、捉えられた理、一切のものは、この心が捉えたものでありながらも「我」に非ず、という感じになります。
無我と表現すると「有るのではなく無い」という感じで捉えてしまいそうになります。そうなると「自分」は自分の経験として、「いまここで感覚を捉えているのだから、無いわけはないだろう」という感じになってしまいます。
しかしながら、毎度のごとく表現すると、今ある環境は外界によって形成されたものであり、その環境にどう反応するのか、つまり環境からの入力に対してどう出力をするのかという関数すら、それまでの間の外界によってもたらされた経験から形成されているので自分のオリジナルではありません。
ということで、関数として一応形成はされていますが、その関数すらまた諸行無常ゆえに変化しますし、環境も諸行無常ゆえに変化します。
なので、実体として固定的な我が「有る」ということにはなりません。しかし関数としての我が「無い」というわけではありません。よって、有と無が統合され重なり合った「空(くう)」という感じになります。
そして「空たる我」の状態を捉えるのが受け取る点、受け取る働きである「心」であるという感じになります。
自己観察を行う自分
「自己観察を行う自分は何なのか?」とか、「自分を客観視しているもう一人の自分がいる」というようなことについて感覚的に疑問に思ったり経験していたりする人もいると思いますが、先の構造で考えるのであれば、あくまで全てBの範疇という感じになります。
単に思考上で捉えるBの分割の様子は、あくまで並列的な処理にしか過ぎません。
しかしながら、「現象をそのまま観る」というものは、我とは何かを体感的に捉える梯子となります(気づく力と自己観察)。
「我が為す」の我
「我が為す」という感じのときの「我」は、この心が直接的に捉える窓口としての我であり、また、行為の意志としては外界からの情報の集束から起こるものでもあり、外界への反応として働くものであったりします。
それはそれで単に自然発生的に形成されたものであり自由を持つものではありません。
勝手に形成されたものでありながら、根本には生存本能から起こる恐怖心を秘めています。生命の保存の意図が根本にあるため、それに即した機能という感じになります。
それは生命の保存という意味では、合理的な働きとなっています。死にたくないという意図から喉の乾きが起こり、水分を摂るということに代表されるように、その機能がないと生命は保たれません。
そしてなるべく快楽を得、苦しみをなくし、なるべく楽にそれを叶え、ということを基本としています。端的には「私は幸せでありたい」という感じです。
しかしここでも再度捉えておかねばならないのが、常に「今」である現実の中、自我(B)が「考えた」ことが本当に正しいのか、それを受け取る心(A)としては本当にそれでいいのかというところです。
逆説的に生命の保存の意図によって苦しみが形成される
「生苦」生きる苦しみ などで触れていますが、生きるということがなければ生きるために必要な様々なことをする「必要」はなくなります。
それを得るためにと起こるリスク、得るまでの間の不快感などの一切が生じません。「幸せになろうと望んでやっているようで、生存本能にただやらされているだけ」という苦しみとなります。つまり、原則マイナスをゼロに戻すだけの構造になっています。
そしてそれを根本としながら、精神上の無駄な苦しみを生じさせています。生命の保存の意図から合理性を元に検討された欲や怒りから生ずる「求不得苦」などはその代表例となるでしょう。
すなわち、「この私」が「幸せでありたい」ということから、無駄な苦しみが起こるということで、逆説的に生命の保存の意図によって苦しみが形成されるということになります。
そしてそれは「一切の形成されたものは苦しみである」という一切行苦に繋がります。
接触から形成されるものと執著
目を閉じても瞼の裏側を見ているだけで、対象との接触が無くなったというわけではありません。
対象と接触することから、この瞬間に何かが形成されます。
そしてそれには致し方ない苦と致し方のある苦があります。
それが五蘊苦と五蘊盛苦の違いです。
対象への接触から始まる五蘊により形成されたものは、それ自体が苦か楽か非苦非楽のいずれかとなりますが、それはそれ自体であり、その瞬間が流れれば次の瞬間には滅しています。
しかしそれが続いてしまう場合があります。それはその対象への執著が起こったときです。よって、苦をまた生じさせてしまうことになります。なので、「無駄な苦しみ」となります。
そしてその執著は「我」から起こります。我という固定的なものが「有る」と「考える」からこそ、執著が起こるという格好になっています。つまり、有ると考える関数があるという感じになりますし、その根底は「生命の保存の意図」という自我(B)の働きがあるという感じになります。
心が受ける「とばっちり」
ということで客観的に構造を見ると自我(B)の勝手な演算の結果をただ受け取るだけの心(A)が受けているという感じになります。
しかしながら自我(B)すら、外界の情報から勝手に形成されたものであり、ある意味で責任はありません。責任はありませんが、心(A)が苦しみを捉えてしまうという、一種のとばっちり的な構造は依然残っています。
責任はありませんが、誰が責任を取ってくれるというわけでもありません。
合理的な検討に意味や価値がないということはない
こうした自我による働きはもちろんすべてが無駄というわけではありません。合理的な検討に意味や価値がないということはなく、心が苦しみを得ないためにと示されている様々な事柄は致し方ないことに対しては意味があります。
単純には怪我をしているのであれば治療を施すというようなものがその代表例となるでしょう。身体の苦痛、身体からの心にやってくる苦痛を緩和するということには意味も価値もあります。なので、自我は完全に悪者というわけではありません。
しかしながら生命の保存の意図が行き過ぎて、無駄が生じることがいっぱいあるという感じになります。
対外的な証明が必要ない「この心」
極めて単純なことになりますが、「この心」については、対外的な証明の必要はありませんし、また、証明することはできません。
逆に考えると、他人に受け取るだけの働きとしての心があるかどうかは、調べようがありません。脳を研究したり等々、いかに科学的に実験をしようがそれは自我(B)の範疇であり、心について調べたことにはならないからです。
脳で起こったことをいくら計測してもその結果を受け取っているのは何かということを永久に知ることはありませんし、それが「この心」以外のことであるのならば、何をどう示しても示したことになりませんし、示したり知ったりしたところで意味も価値もありません。
何をどうしようと、あくまで全て自我(B)や外界の現象(C)の範疇になるということは論理上脱することはできません、
「心」から捉える空観と仮観
こうした形で「心」から構造を捉えてみると空観や仮観というものが一体何なのか何となく見えてくるのではないでしょうか。
「どうあがいてもこの心しかない」と捉えるのが空観であり、受け取るところとしての「心」を想定せずに、自我の範疇や外界の現象ばかり捉えているのが仮観という感じです。
空観が進むと「他人はいない」といったような極端に走ることになりますし、「他の心はない」とか、「他の心とは何かを捉えられないから」といって、「この心の満足のためには何をしても良い」ということになり、結果自我(B)が想定した合理性から、最終的にこの心に受けるものを度外視した行為に執著するという逆説的な愚行に走る恐れがあります。
仮観は単に自我の範疇でしか現実を捉えていないので、「この私の幸福の最大化」という目線しか持たず、「生命の保存の意図」の騒ぎのまま、無駄な苦しみをたくさん生じさせることになります。
受け取る働きであるのならば境界がない
外界の現象・接触の対象C→自我B→心Aという構造から捉えれば、自我は中継地点であるというだけで、CとBとAは、分断されたものではありません。日常においても他人のBは、自分のBにとってはCとなるだけです。
現実の中心を「心」として捉えれば、様々な情報が分断されているものではないことが直感で理解できるはずです。
まあ単純にイメージとしては、全てを素粒子のようなものと捉えれば、状態がどうあるかというだけで、宇宙の果てであろうが何であろうが、何も分断されてはいないという感じになるでしょう。
そこに「手と壁」のように「通り抜けられない」というような感覚を持つと分断されているという印象が起こります。
という構造から「境界がない」という印象を持つという程度です。
ありのままの現実として捉えた先にはただ行為のみ行為のみが残る
そのような感じで、心はただ受け取るのみとなります。
それをありのままの現実として捉えた先にはただ行為のみが残ります。しかしながら捉えるという言葉すら概念化されてしまう上に、「我が」という主語がつきそうな感じがするので論理矛盾が起こりそうなものです。なので、思考で捉えることはできないという感じになりますし、明確に示し得ぬ領域という感じになってしまいます。
しかしながら、意味不明なことでもないことは、直感的な理解により捉えられるのではないか、と思ったりもします。
「心とは何か?」ということを「この心」のためにどのように捉えるのか
単純にモデル化したりして示してみましたが、「心とは受け取る働き、認識する機能、受け取る点である」というような定義を客観的に完全に証明することは論理上不可能です。一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能ですからどうしようもありません。
しかしながら重要なのは、「心とは何か?」ということにつき、「この心」のためにどのように捉えるのかという点です。なので思考実験的に捉えるくらいでちょうどよいでしょう。
どうせ何をどう示そうと、心についてこの心以外は何がどうなのかを知ることはできません。知ったつもりでも結局「この心」がどう捉えるかだけが問題なのですから、無理に示しても自我の範疇で行われた仮説や詭弁にしかなりません。
もちろん「この心とは何か?」ということを頭で把握しただけで全ての苦しみが無くなるというわけでもありません。しかしながら、そんなきっかけが訪れるかもしれません。
「心とは何か」ということに関しても、自らと理を拠り所とし、
「であるとしたらどうなのか?」
というところから揺るぎない安穏を見つけ出してください。
最終更新日:
(prrrr….、ガチャ。)
bossu様、お元気ですか。
今年の初投稿にコメントさせていただいた、ぺんたくやでございます。
改めまして、こんにちは。
実はあれからというもの、まずはどの記事からコメントを寄せようかすっかり悩んでおりました….。
しかし今回、新たに投稿していただいた記事がまさかの僕の好きな哲学テーマだったことと、なんだか今回ばかりは自分に向けられてる気すらしまして「コレだ!!」と勝手に思い込み、新年以来の初となる本格的(?)なコメントはこちらから寄せるに至った次第でございます。
なので、道場破りの如く颯爽と参上!….ってほどのことでもないのですよ。
正直、過去にbossu様がたびたび理を説かれている記事も熟読させてもらっておりますし、そういった意味でも僕はそれらの言い回しを替えて伝えるしか術がなく、目新しいことを言えるような立場ではないですからね。
まぁ、ちゃんとbossu様が仰ったことを「コイツは理解してるな」と照らし合わせてもらうという意味で、何か間違いや追加で指摘を教えていただけるならばとてもありがたいなぁって感じです。
あとそれから何を隠そう、今日が自分の誕生日なんです。(最初のコメント時が29歳でした)
昨日の夜、数日ぶりにサイトを訪れて、急いで文を滑り込むように仕上げたので、今回は以前みたいに推敲してなくて結局自分でもなにを言いたかったのか分かりませんが、….誕生日なので!
いやー、こだわることほど不自由なものはないですねー!!
それでも、こうやって自分の誕生日をbossu様のサイトで過ごせて嬉しいです。今回の記事も自分にとっては最高のプレゼントであり、特別でありきっと忘れることはないです。
とまぁ、自分語りが多くなりました….すみません。
今回のテーマは「心」ですよね。
なんだか過去記事を簡略して凝縮しつつも総括してあり、なおかつまた新たな考えのタネをbossu様が散りばめ残してくれたように感じたので、また考える材料をくれてありがとうございます!って感じです。
また理解できるまで何度も熟読させていただきますね!
そして。
そこにたびたび登場する「アイツ」こと自我の脅威としての心のノイズついて、僕も考えてみました。
アイツは様々な状況に応じて巧みに変幻自在をするメタモルフォーゼ使いであり、その都度に自分へと恐怖を煽ってきますよね。
ただ、ココでその瞬間に自分が真っ向から切先を向け、アイツに攻防を繰り返し、ひとりせめぎ合っているようではまだまだ外界への囚われが露骨に見え隠れしているような気がします。
そこに本当の安穏も無いですよね。
しかも自我を野放しにしたところで、何かしら傷を負わされるわけでもなかったのにです。
なにかに捉われ、勝手に勝ってる気を持ったり、勝手に負けてる気をしたりするような滑稽さというのか….。
さらに言わせてもらうと、それがそもそも「なにかの決闘」ですらなかったんだと….このあたりの勘違いに気づける人も少ないのではないかと思います。(bossu様も過去に自我は敵なのか、という記事もあったのを覚えております)
というわけで、自我に対するひとつの処方箋としては、
「まずは、お前が両手に握りしめているその剣と盾を捨てろ!!」
みたいな感じですかね。
対アイツ用としての武具も持ち備えようと考えること自体が誤謬な気もしますし、その果てに本当の勇者もクソもなさそうなものですよね。
かのブッダも数々のマーラに対して、鉄拳制裁したワケではなかったということを踏まえれば、また何かしらのヒントになりえそうなものですね。
なんだか愛と勇気だけが友達の某ヒーローとはまた違った感じも見受けられますね。
くたばらせてナンボみたいな….。
もちろんだからといって、彼の生き様を悪く言っているわけではないのですよ!
まだまだお話したいこともあります!
駄文なので、bossu様の目汚しになってなければいいのですが….。
よければ、またお言葉をいただけると幸いです。
それでは、失礼致しました。
お誕生日おめでとうございます(日が変わってしまい恐縮です)。
おっしゃるとおり手放す感覚が大切です。
人によっては経験がない場合もあると思いますが、「金縛りを解くような感じ」が手放す感覚に近いと思っています。
力んでもさらに金縛りが強くなるため逆効果であり、解くには緩められそうなポイントからじわ~っと緩めるというのが一つのコツです。
恐怖心が発端であったとしても、その恐怖心を押さえつけることもまた恐怖心を支えるものとなりかねません。
すなわち、恐怖心を持ってはいけないという抵抗もまた、アイツの判断であり自爆行為です。
“そもそも「なにかの決闘」ですらなかったんだ”
という印象はまさにご名答であると思います。
そしてそれが「滑稽に映る」というものに繋がります。
「やらなければならない」という騒ぎと「それは恐怖心から出たものであるため、やらない」という抵抗の両方を解放するような感じですね。
なお、愛と勇気だけが友達の某ヒーローは、ヒーローでありながら相手を懲らしめる程度で、奥底に怨恨や害意などがない感じが粋だと思っています。
今回も、ご丁寧にコメントありがとうございます。
誕生日の祝福のお言葉までいただけて、大変嬉しいです!!もはや1日遅れなど全く気にしておりませんし、きっと回線が混雑してて日を跨がれただけだと思ってますから!
bossu様からのご名答のお言葉までいただき、受験生の合格通知の発狂の如き喜びでした!「恐怖心を持ってはいけない」ということは、確かにどこか強迫観念がましくなっていますもんね。(笑いなさい、と同じ匂いが….)
金縛りの例えもとても納得できました、確かに原理がそっくりですね。
金縛りになると「あぁ、アレか….」って一瞬感じるんですが、その流れからの抵抗が一番墓穴掘ってるんですよね。
本当はなにも考えないのが一番なのでしょうが、僕はただ「動かない」とラベリングを貼ることもあります。
「それをどう思う?」ってアイツは確実に聞いてきますが、その時は絶対アイツと目を合わせちゃダメですね!
愛と勇気だけが友達のくだりもご丁寧に拾ってくださってありがとうございます。自分で振っておきながら大変恐縮です。
※このパンチには雑味は一切含まれておりません。
って感じですかね。
なんだか、空想科学読本みたいな会話になっちゃってますね!
あと、bossu様とお話させていただいて一つ思ったのは、なるべくなら過去記事に書かれていることと被らないような視点から質問をしたいですね。
「それに関しては、哲学テーマの〇〇に詳しく掲載してあるので、そちらをご参照ください」
みたいになるのは、単純に労をおかけするだけだと思ったので。そのうえ一問一答の形式を念頭に置き、良い質問者になりたいと僕は強く思いました。
とにかく、今回もお言葉をいただけて本当に嬉しかったです。
本当にありがとうございました。